ロシアの殺人鬼アンドレイ・チカチーロ!虐殺事件や生い立ちなど

世界中に衝撃を与えたロシアの殺人鬼「アンドレイ・チカチーロ」をご存知でしょうか?彼を題材にした映画までもが存在していますが、アンドレイ・チカチーロの生い立ちから家族・息子、衝撃を与えた事件や判決を詳しくまとめて行きます。虐殺事件の真相をご覧下さい。

ロシアの殺人鬼アンドレイ・チカチーロ!虐殺事件や生い立ちなどのイメージ

目次

  1. 1アンドレイ・チカチーロとは
  2. 2アンドレイ・チカチーロが起こした虐殺事件当時
  3. 3アンドレイ・チカチーロの虐殺事件の経緯
  4. 4アンドレイ・チカチーロの逮捕と裁判・判決
  5. 5アンドレイ・チカチーロの家族や生い立ち
  6. 6アンドレイ・チカチーロの結婚と教師転職
  7. 7アンドレイ・チカチーロを題材にした作品
  8. 8アンドレイ・チカチーロは世界に衝撃を与えた殺人鬼

アンドレイ・チカチーロとは

片目だけ見せている男性

「ロシアの連続殺人鬼」として世界中に衝撃を与えたアンドレイ・チカチーロは1936年10月16日に「ウクライナ・スムスカヤ州ヤブロチュノア村」で生まれました。彼の名だけを耳にした事がある方も多いのでは無いでしょうか?

別名「ロシアの死神」と言われているアンドレイ・チカチーロですが、その他にも「ロシアの食屍鬼」「ウクライナ生まれの連続殺人鬼」「ロストフの殺し屋」「赤い切り裂き魔」などの呼び名で知られていました。

窓辺にいる男性

本名は「アンドレイ・ロマノヴィチ・チカチーロ」(チカティロ、チカティーロとも書かれる)である彼には、兵役であった父と母・妹と兄がいたとされています。

生い立ちや家族関係が原因で殺人鬼といった歪んだ一面を持つ様になったと囁かれているアドレイ・チカチーロは一体どんな事件を起こし世界に衝撃を与えたのでしょうか?

アンドレイ・チカチーロはロシアの殺人鬼

インカメにして自撮りしようとしている男性

アンドレイ・チカチーロは1978年から1990年にかけて、主にロシア・ソビエト連邦社会主義共和国内で52人を殺害し、「ロシアの殺人鬼」と呼ばれ恐れられた犯罪者です。アンドレイ・チカチーロは逮捕後に殺人罪を言い渡されています。

一部の犠牲者は当時の「ウクライナ・ソビエト社会主義共和国」と「ウズベク・ソビエト社会主義共和国」でも虐殺されているとされています。

古びたパトカー

この事件の捜査を担当した民警(ソ連内務省管轄の文民警察組織)内部では、これらの事件が連続殺人・同一犯人による犯行だとは考えにくいとされ、組織立った捜査が見られず、犠牲者を増やす事になりました。

今では想像もつかないアンドレイ・チカチーロによるソ連全土に及ぶ虐殺事件ですが、犠牲者は男女を問わなかった事もあり、無実の男性(強姦殺人の前科持ち)が疑われ逮捕に至ったそうです。

子供を中心とした大量虐殺

女の子2人の後ろ姿

上記の方で紹介させて頂いた通り、アンドレイ・チカチーロは52人の男女を虐殺しています。「ロシア最強の殺人鬼」として世界を震わせた彼ですが、52人の男女の内の多くが子供とされ、子供を中心とした大量虐殺としても知られる事となりました。

アンドレイ・チカチーロは1971年から1981年まで小学校や職業訓練学校の教師を務めていた事もあり、今では「小児性愛者だったのではないか?」と言われています。何が彼の人格をここまで歪ませてしまったのでしょうか?

虐殺事件はロシア全土で

モスクワの赤の広場

子供を中心とした虐殺事件を起こしたアンドレイ・チカチーロの犯行は、1978年の「ロストフ・ナ・ドヌー」(ロシアのロストフ州の州都)から始まっています。

その後も「ノヴォチェルカッスク」(ロストフ州南部の産業都市)、「ザポリージャ」(南ウクライナ地方)、「レニングラード」(ロシア西部の都市)、モスクワといった現ロシア全土で犯行を重ね、ロシアの殺人鬼として知られる事となりました。

道路付近に座っている男性

ロシア全土を恐怖に陥れた殺人鬼、アンドレイ・チカチーロは、今現在「ロストフ国立大学」の「優れた卒業生」として名を挙げられています。真面目で優秀だったからこその歪んだ一面を持っていたのかもしれません。

有名な連続殺人鬼ランキング・有名な極悪犯罪者といったランキングにもランクインしているロシアの殺人鬼、アンドレイ・チカチーロの犯行や判決は彼を題材にした映画がある限りこれからもこの世から消える事は無いでしょう。

アンドレイ・チカチーロが起こした虐殺事件当時

フードを被っている男性の後ろ姿

ある程度ロシアの殺人鬼、アンドレイ・チカチーロが犯した連続殺人について知れたかと思われますが、彼が犯した虐殺事件当時についても紹介させて頂きます。

連続殺人事件が起こった頃のソ連は「ゴルバチョフ政権」で、様々な革命に取り組むもソ連を終結させ崩壊に導いてしまいました。こういった波乱の中起きたアンドレイ・チカチーロの虐殺事件の当時を改めて知って行きましょう。

当時ソビエト連邦には殺人犯罪は存在しない?

縄や虫眼鏡

当時のソビエト連邦は、連続殺人を資本主義の弊害によるものとしており、「この様な殺人は存在しない」との見解を発表していました。簡単に言うと昔のソビエト連邦は殺人犯罪は存在しないものとして扱っていたという訳です。

その事からアンドレイ・チカチーロの犯罪は民警内部では連続殺人といった認識が無く、元から組織的に捜査を行なう事が無かったと言われています。

刑務所の中

その為アンドレイ・チカチーロを逮捕するまでに時間がかかったとも言われていますが、民警の本部長は捜査の為に殺人事件が多発している「シャフトゥイ」(彼が教師を務めていた職業訓練学校周辺)での捜査に集中しました。

捜査の対象は主に精神疾患を患っている若者達で、過酷な尋問に耐え切れず拘留中に独房内で自殺する若者達が多かったとされています。殺人犯罪・連続殺人が存在しないといった点から彼は上手く逃げ回れたのかもしれません。

虐殺事件は集団犯行と勘違いも

霧の中にいる警察

52人の男女・子供を虐殺したロシアの殺人鬼、アンドレイ・チカチーロでしたが、上記の方でも紹介させて頂いた通り同一犯人による犯行だとは考えらえず、当時の民警内では集団犯行だと受け止められていたそうです。

その為性犯罪学に詳しい中佐を指揮官とし多くの性犯罪者を集めたとの事でした。1984年には他の場所で15人の被害者が発見されたと共に、沢山の公的交通手段を閉鎖し地味な服を着た男性を対象にした情報を公示した様です。

バス停に座っている女性

集団犯行だと受け止め捜査を続けていた民警でしたが、ある日アンドレイ・チカチーロがロストフのバス停で少年や少女に声をかけている所を私服刑事が発見しました。

その後2週間程監視されたアンドレイ・チカチーロは民警分署に同行を求められ、この時に彼のカバンから料理包丁・ロープが発見された事で緊急逮捕されています。

独房の中

緊急逮捕されたアンドレイ・チカチーロでしたが、当時のソ連の法律では24時間以上の拘束は禁止とされていた為、民警は彼の勤務先で「リノリウム」(建材の一種)が紛失した容疑も加え、拘束時間を延長させたそうです。

ここまで聞くと「これで逮捕?」と思ってしまう方もいるかと思われますが、アンドレイ・チカチーロにおける犯罪を証明するものが出てこず、証拠不十分となり逮捕はされず釈放されました。

真っ暗な場所でフードを被っている男性

緊急逮捕されたものの、逮捕はされず再び世に放たれたロシアの殺人鬼、アンドレイ・チカチーロでしたが、当時の彼の心境や、民警の悔しさを聞いてみたいものです。

昔と現在では殺人・逮捕における考えや法律も大幅に変わっていますが、もしも今の時代にアンドレイ・チカチーロがいたのであれば集団犯行との考えも無く、多くの犠牲者も出なかったと言えるかもしれません。

虐殺事件当初の官僚体制にも問題

雨の中歩いている警察3人

数十年も逮捕されず逃げ回っていたアンドレイ・チカチーロですが、それには虐殺事件当初の「官僚体制」にも問題があったとされています。

犠牲者が増え続けるもなかなか解決に至らなかった事から、ソ連の「精神医学博士」である「アレクサンドル・ブハノフスキー」に捜査の依頼を頼んだ事もあったそうです。

机の上で両手を組んでいる男性

上記の方でも紹介させて頂いた通り、アンドレイ・チカチーロが連続殺人事件を犯した当時はゴルバチョフ政権により、様々な波乱が巻き起こっていました。

ソ連社会における官僚のことなかれ主義といった壁に阻まれ、犯人逮捕は遠のき、犠牲者を増やす形になってしまったのです。当時の政権・主義が違えば官僚体制にも問題が無かったのかもしれません。

アンドレイ・チカチーロの虐殺事件の経緯

暗闇の中にあるフード

ある日をキッカケに歪んだ一面を持ってしまったアンドレイ・チカチーロですが、彼が殺人鬼になってしまった経緯をまとめさせて頂きます。子供を中心とした虐殺が目立った事件でしたが、「売春婦」や「ホームレス」にも目をつけた様です。

生い立ちや家族との問題でコンプレックスを持ってしまった事から殺人鬼になってしまったと言われているアンドレイ・チカチーロの連続虐殺事件の真相を知って行きましょう。

最初の殺人犯罪は1978年12月

帽子を押さえている女の子

アンドレイ・チカチーロが最初の殺人を犯した日は1978年12月だとされています。1978年にロストフ・ナ・ドヌー近くの「炭鉱業専門学校」に転勤させられた彼は、ある少女を見つけてしまいました。

アンドレイ・チカチーロは1978年12月22日に9歳の少女「レーナ・ザコトノワ」を連れ出し強姦しようとしたそうですが、生い立ちにあるコンプレックス「勃起不全」の為、勃起はしなかった様です。

暗闇の中にいる女の子

その後少女が抵抗した事から、アンドレイ・チカチーロは少女の首を掴み自分の全体重をかけ、少女が動かなくなってから行為に及ぼうとしました。ですが少女が息をふきかえした事で彼は驚き、少女の性器をめった刺しにして殺害しています。

その後も息絶えた少女の死体を切り裂き、突き刺したりする事で自身が「性的興奮」「オーガニズム」を得る事を自覚したアンドレイ・チカチーロは、少女をめった刺しにしている途中で射精したとの事でした。

湖にいる男性の後ろ姿

少女の死体は袋に詰めて凍った川に破棄したというアンドレイ・チカチーロですが、残っている記録によるとこの事件が彼の初めての殺人との事です。

アンドレイ・チカチーロは少女を殺害してから3年間の間は殺人も強姦もしていないとされています。生い立ちの中にあるコンプレックスが原因で1978年12月22日に殺人鬼と化してしまった彼に救いは無かったのでしょうか?

その後は売春婦やホームレスを連続殺害

暗闇の中壁に寄りかかっている男性

初めての殺人から約3年近くの間は虐殺も強姦もしていないとされていたアンドレイ・チカチーロでしたが、1982年~1983年から再び犯行を始めました。次に狙ったのは売春婦やホームレスだったといいます。

1983年9月前には3人の女子供を含む4人を殺害し、徐々にロシア最強の殺人鬼として豹変して行きました。殺人鬼として拍車がかかったのは売春婦・成人女性の発言にあるとの事でした。

霧がかかった道路

アンドレイ・チカチーロは売春婦・成人女性に対し、酒やお金を与える約束をして誘い込み、性交を試みた様ですがやはり彼は勃起せず、彼女らが彼の勃起不全を嘲笑い馬鹿にした為、アンドレイ・チカチーロは怒りと殺意を覚えたそうです。

この事から彼はあらゆる売春婦・成人女性を殺害し、その後もバス停や鉄道駅にいる子供やホームレスに声をかけ、森の近くに誘い込み殺害しています。馬鹿にされた事で彼は連続殺人を犯しロシア最強の殺人鬼となり果ててしまいました。

3人の男の子達

玩具やお菓子を使って子供を誘惑したというアンドレイ・チカチーロは、1983年までに計6人を殺害し、1984年には別の場所で15人を虐殺しています。

連続殺人鬼と化したアンドレイ・チカチーロですが、元から持っていたコンプレックスと女性達からの嘲笑いが原因で、より歪んだ一面を持ってしまったのでしょう。

52件の虐殺事件は無実の男性が死刑に

フェンスに手をかける男性

アンドレイ・チカチーロが連続殺人鬼となった経緯を紹介させて頂きましたが、上記の方で紹介させて頂いた通り、彼が犯した52件の虐殺事件の犯人とされたのは無実の男性です。

男性は強姦殺人の前科持ちという事で犯人として疑われました。しかし男性にはアリバイがあり妻や友人も知っていたそうですが、民警が圧力をかけると妻や友人は態度を変えてしまったそうです。

穴が開いている網戸

その後男性も民警による激しい尋問の末、犯してもいない連続殺人を自供し、判決により「銃殺刑」(死刑)となりました。

アンドレイ・チカチーロによる連続殺人事件で、無罪の男性が犯人とされ処刑になった事実を当時の民警はどう思っているのでしょうか?

アンドレイ・チカチーロの逮捕と裁判・判決

裁判で使うハンマー

ロシア最強の殺人鬼となり果てたアンドレイ・チカチーロが逮捕されたのは1990年の事でした。そんな彼の逮捕に至るまで、その後の裁判や判決についても詳しくまとめさせて頂きます。

ようやく逮捕となったアンドレイ・チカチーロですが、裁判中には異常な言動を見せたりと犠牲者の家族を煽る様な行為も見せたそうです。最終的に彼に下された判決は「死刑」となりましたが、それまでの経緯を振り返りましょう。

1990年に目撃により逮捕

枯れ葉の上を歩いている男性の足元

アンドレイ・チカチーロが逮捕されたのは1990年11月20日の事でした。1990年11月6日に22歳の女性「スヴェータ・コロスティック」を殺害し、切断した彼は、顔に返り血を付着させたまま現場付近を歩いていたそうです。

その姿が民警の目にとまり、アンドレイ・チカチーロの勤務記録を調査した所、犯行日時と出張記録が完全に一致し、民警及びKGB(ソ連国家保安委員会)の監視下に置かれる事となりました。彼の最後の犯行が上記の事件です。

監視カメラ2台

これで逮捕されるかと思いきや、まだアンドレイ・チカチーロを逮捕・起訴するだけの充分な証拠が無かった事から、彼は諜報員の追跡を受け、ビデオテープに撮られるなどして警察の監視下にありました。

その後これ以上アンドレイ・チカチーロを泳がせておくのは危険だと判断した民警とKGBは、1990年11月20日の午後3時44分に、職場から帰宅する彼を逮捕したのです。

逮捕が遅れた理由には血液型と精液タイプの不一致

検査用のミラー

上記の方で紹介させて頂いた通りアンドレイ・チカチーロは一度緊急逮捕され釈放されています。そこで何故釈放されたのか、何故逮捕までに時間がかかったのかと言うと、彼の血液型と精液の不一致にあった様です。

アンドレイ・チカチーロは血液型と精液(体液)が一致しない100万人に1人の特異体質である「非分泌型」だったそうで、当時はDNA鑑定も無かった事から証拠を見つける事も出来ず、犯行の立件が出来なかったとの事でした。

当時の捜査は行き届かない部分も?

検査後の結果

非分泌型だと言われているアンドレイ・チカチーロですが、今では「当時使用していた検査用試薬では検出できないタイプだったのではないか?」といった推測もあり、鑑定結果を出せる程の開発が進んでいなかったと言われています。

この様な開発の問題に加え、上記の方で紹介させて頂いた官僚主義・ことなかれ主義により当時の捜査には行き届いていない部分が沢山あったとも言われているそうです。

裁判最中の異常な行動

下から見た変顔

独房に入れられ「特別監視体制」をとられていたアンドレイ・チカチーロでしたが、1992年4月14日に「ロストフ地方裁判所」にて半年に及ぶ裁判が始まりました。法廷の中央に鉄の檻が設置され、彼はその中に入れられたそうです。

元々彼は髪を七三で分けており、渋いスーツと黒ぶち眼鏡をかけた真面目な人物だったと言います。言葉遣いも立ち振る舞いも丁寧で「温厚な紳士」だと言われていた彼は、裁判最中に異常な行動を見せ周囲を驚かせたとの事でした。

サングラスをかけ舌を出している男性

紳士そのものだと言われていたアンドレイ・チカチーロは、公判中にズボンを脱ぎ性器を露出させたり自慰行為を始めたり、終いにはソ連当時の国家までもを歌い始め異常過ぎる姿を見せたそうです。

その後もわざとウクライナ語を喋り、ウクライナ語の通訳を求めたりと異常過ぎる言動を多く見せました。続けて、殺人を自白したと思えばそれを否定したり、逆に「犠牲者はもっと多い」などと発言したりもしています。

口を開けている男性

公判中に異常過ぎる言動を見せていたアンドレイ・チカチーロは、急に「俺は妊娠している。本当は女なのよ」とも発言し、ずっと支離滅裂な言葉を発していたとの事でした。

当時の弁護士は彼の言動に対し「自分を精神異常者だと思わせ判決を無罪に持ち込む思惑だった」とコメントしています。頭が良い事でも知られていたアンドレイ・チカチーロですが、判決を無罪にするのは無理があるでしょう。

犠牲者の家族は裁判時に失神も

裁判の机

判決を無罪にしようと異常な言動を見せたアンドレイ・チカチーロでしたが、裁判が進むにつれ犠牲者の家族からは「サディスト」「人殺し」などと罵られ、罵られた彼は犠牲者の家族に対し手を振って応えたとの事でした。

犠牲者の名前が挙がった時には失神してしまう家族も多く見られ、そんな事はおかまいなしと言わんばかりにアンドレイ・チカチーロは犠牲者を屈辱するような発言をし、犠牲者の家族までもを馬鹿にしたそうです。

審判の女神

犠牲者の家族の感情を逆撫でし、裁判長までもを激怒させ退廷を命じられる事も多々あったというアンドレイ・チカチーロに対し、当時の被告側弁護士も彼の言動・態度を厳しく批判したといいます。

判決を無罪にしようと支離滅裂な言葉・異常な行動を見せていた彼でしたが、やはり彼に下った判決は「死刑」となりました。

アンドレイ・チカチーロには死刑判決が下る

本と裁判で使うハンマー

1992年10月14日にアンドレイ・チカチーロには、52件の殺人罪で有罪判決を受けたと共に「死刑判決」が下されています。裁判長は「彼が犯した途方もない犯罪を考慮すると彼は刑罰を受けるに値する。私は彼を死刑に処す」と述べました。

判決を受けた彼は「イカサマだ!お前の嘘なんか聞かねえぞ!」と罵倒した様ですが、判決を聞いた犠牲者の家族からは拍手が喝采したそうです。

天秤とハンマー

死刑判決が下り話す機会を与えられたアンドレイ・チカチーロは「何の価値も無い人間を掃除する事で社会貢献をした」と話したとの事でした。その後彼は判決を不服とし上告しましたが、当時のロシア連邦大統領によって拒絶されています。

死刑判決が下された2年後の1994年2月14日にロストフの刑務所内にある防音措置を施された部屋でアンドレイ・チカチーロは処刑(銃殺刑)されました。57歳だった彼の死後脳は日本人に買い取られたそうです。

アンドレイ・チカチーロの虐殺事件は戦争も関係?

自転車を持ち町を見ている男性

死刑判決により無事解決に向かったアンドレイ・チカチーロによる連続殺人事件でしたが、彼が殺人鬼と化した理由には生い立ちにもあります。幼い頃に経験した「戦争」が原因で幼少期の頃から歪み始めたとの事でした。

第二次世界大戦を経験している彼は戦争により「心的外傷」を受けています。ですが第二次世界大戦中に遭遇した電撃戦にて怯えと興奮の両方を感じてしまった事から虐殺事件に興味を持ち始めたと言われている様です。

アンドレイ・チカチーロ以上の最強最悪の殺人鬼の存在も

煙の中にある男性の顔

ロシアの殺人鬼として世界中に衝撃を与えたアンドレイ・チカチーロでしたが、彼以上に最強最悪の殺人鬼と言われているのがコロンビア生まれの「ペドロ・アロンソ・ロペス」とされています。

「アンデスの怪物」と呼ばれたペドロは、1969年から2002年まで思春期前の少女300人を殺害したとし、有罪判決(殺人罪)を下されました。現在は消息不明となっており、生きているのか死んでいるのかも不明な状態となっています。

森からやってくる男性の影

ペドロが殺人鬼となった理由はアンドレイ・チカチーロと同じく生い立ちにあった様で、死刑制度が廃止していた事から釈放され、その後の消息は不明とされているそうです。

生い立ちのせいで歪んだ一面を持ったアンドレイ・チカチーロとペドロの連続殺人は許されるものではありませんが、ある意味周りの環境や家族のせいで彼らは苦しい思いを虐殺にあてたのかもしれません。

アンドレイ・チカチーロの家族や生い立ち

砂浜にいる親子

ロシアの連続殺人鬼、アンドレイ・チカチーロの虐殺事件について紹介させて頂きましたが、彼が殺人鬼となった原因でもある家族や生い立ちについてもまとめさせて頂きます。

どの様な家族の元に生まれ、どういった生い立ちを経て彼はロシア最強の殺人鬼になってしまったのでしょうか?

両親と兄と妹がいる5人家族

5人家族の足元

上記の方で紹介させて頂いた通り、アンドレイ・チカチーロは父・母・兄・妹の5人家族となっています。妹の名は「タチアーナ」、兄の名前は「ステパン」とされ、彼の母曰く兄は「飢えた隣人に誘拐され食べられた」との事です。

実際には本当に食べられたのかは不明となっている様ですが、5人家族という事は本当だとされています。彼は慢性的な夜尿症だった為、症状が出る度に母から暴行を受け屈辱的な日々を送っていたそうです。

成長期には性的コンプレックス

ニット帽をかぶって体育座りしている男性

5人家族だったアンドレイ・チカチーロでしたが、母から暴行を受けていた事も殺人鬼となった原因と言われています。なかなか壮絶だと言う彼の生い立ちですが、成長期には自身が勃起不全だと知り、性的コンプレックスを抱いてしまいました。

生まれつきの「性的不能」とされた彼は、これらのコンプレックスにより連続殺人・大量虐殺・殺人事件を犯す殺人鬼になったと推測されています。家族・生い立ち・自身の気付きにより彼は徐々に理性を保てなくなったのかもしれません。

名門モスクワ大学法学に不合格

モスクワの大学

家族からの暴行・性的コンプレックスを紛らわす為にアンドレイ・チカチーロは勉学に打ち込み、地元でも有名になる程の秀才となりました。ソ連におけるパワーエリートを志した彼は、名門「モスクワ大学法学部」を受験した様です。

ですが受験は失敗に終わり、彼は初めての挫折を味わいました。本人は「成績は良く試験の手ごたえも十分だったのに父がドイツ軍の捕虜になったばかりに不合格となった」と信じて疑わなかったそうです。

祈っている男性

自分の才能を過大評価していたというアンドレイ・チカチーロは、大きな「ルサンチマン」を抱いたまま歳を重ねたと言われています。

ルサンチマンとは「主に弱者が強者に対し「憤り・怨念・憎悪・非難」の感情を持つ事」とされ、彼は受験に失敗した事で様々な感情を抱いてしまったのでしょう。生い立ち・挫折から生まれた彼の殺人鬼としての一面とも言えるかもしれません。

就職後に同僚から自慰行為姿を目撃される

暗闇の中横を向いている男性

ここまでの生い立ちを見ると、やはり上記の方で紹介させて頂いた通り戦争で感じた感情や家族である母からの暴行・性的コンプレックスや受験失敗の挫折により彼の内面が徐々に歪んで行ったと言えるでしょう。

アンドレイ・チカチーロはその後、2年間の兵役を経て1960年に家族が住む「ヤブロチュノア村」に一旦戻り、ロシアとの国境付近に仕事を求めて移動しました。

電力線

その後ロストフ・ナ・ドヌーから30km程離れた「ロディオノホ・ネスタビィエフスキ」という町で「電話工」として働き始めたアンドレイ・チカチーロは、この頃に自身が性的不能だという事に気付いたそうです。

働き出して生活が安定した彼は、家族を呼び寄せ一緒に暮らしていた時期もありました。家族と仲良く過ごしていたと思われた彼が失敗を再び犯してしまったのは1962年の事です。

フードを被っている男性

アンドレイ・チカチーロは1962年頃になると暇を見つけては1日に何度も自慰行為をする様になっていたといいます。そんな中、仕事仲間と共に電信整備の修理に来ていた彼は仲間に隠れて自慰行為を行っていました。

ですが運悪く、自慰行為を行っていた所を同僚に目撃されてしまい大きく馬鹿にされ、致命的な失敗をしてしまったそうです。これらの生い立ちにより彼は沢山の歪んだ感情を生み出してしまったと言えるかもしれません。

アンドレイ・チカチーロの結婚と教師転職

新郎新婦の足元

アンドレイ・チカチーロの家族や生い立ちについて紹介させて頂きましたが、彼の結婚や息子・娘の存在、教師への転職情報もまとめさせて頂きます。

息子に関する衝撃の情報から懲りずに事件を起こす彼の全ての情報を改めて知って行きましょう。

28歳で妻・フェーニャと結婚

お祝いされている新郎新婦

アンドレイ・チカチーロが結婚したのは1963年の事です。彼の妹は兄である彼を心配し、友人の「フェーニャ・オドナチェヴェ」をアンドレイ・チカチーロに紹介しました。フェーニャは彼よりも3歳年下で、その後の1963年に結婚した様です。

当時のソ連では18歳~19歳の間に結婚しているのが殆どだったそうで、彼は28歳でやっと結婚出来たとの事でした。

妻・フェーニャとの間には息子と娘を授かる

チューリップだらけの場所にいる子供2人

結婚してから2年後の1965年には娘「リュドミラ」を、1969年には息子「ユーリー」が産まれ、アンドレイ・チカチーロは2児の父になりましたが、フェーニャとの性行為では自分の指を使って彼女の中に射精していたそうです。

娘と息子を授かり4人家族となった彼ですが、やはり彼の虐殺事件を幼少期の頃に目の当たりにした息子・ユーリーは第二の殺人鬼となってしまいました。

息子は後にウクライナ東部での殺人などで逮捕

腕を組んでいる男性

アンドレイ・チカチーロに死刑判決が下った際には、家族であるフェーニャ・娘・息子は身分と名前を変えひっそりと暮らす事になった様ですが、その後彼の息子であるユーリーが「ウクライナ東部」で殺人を犯し逮捕されています。

逮捕された時にはチカチーロの息子だという事が世間に知れ渡ったそうです。息子は「窃盗」「暴力事件」も起こしていたそうで、逮捕歴も数回あったとされています。

線路を歩く父と息子

息子の現在の名前は「ユーリー・オドナチェヴァ」とされ、様々な推測によると、息子も殺人鬼である父を持った事で壮絶な生い立ちを体験し、精神を病んだ事で息子も殺人やあらゆる事件を犯したと言われているそうです。

一番辛いのは妻であり母であるフェーニャかと思われますが、息子・ユーリーも辛い思いを抱えていたのでしょう。現在息子の情報は一切無い状態ですが、息子が彼と全て同じの道を歩まない事を祈るばかりです。

結婚を機にロストフ大学教養学部通信教育課程に入学

削られた鉛筆とノート

大学進学への夢を諦めきれなかったアンドレイ・チカチーロは、結婚を機に当時30歳(1964年)にして「ロストフ大学教育学部 通信教育課程」に入学し、ロシア文学を専攻した後、5年後に念願の大学卒業を果たしました。

大学卒業後に教職資格を取得

分厚い本を持っている男性の下半身

無事に大学卒業を果たしたアンドレイ・チカチーロは、教職資格を取得し、「ノヴォシャフチンスク」の小学校の教師となった様です。しかし彼は、「若い女性とのふれあいが一生の仕事にならないだろうか」との考えも抱いたとの事でした。

教師になるも猥褻事件を起こし辞職

歩いている男性

小学校教師となったアンドレイ・チカチーロでしたが、彼は極度のあがり症だった為、子供達に全く指導が出来ず、クラスを学級崩壊に陥らせてしまったそうです。

それに加えこの頃の彼は、職場の小学校で数度の「猥褻(わいせつ)行為」を起こしていたと共に、通勤途中のバスや電車の中で少女に猥褻な行為をしていた所をまたもや同僚に目撃され、最終的には辞職させられています。

辞職後は第33職業訓練学校の教師兼舎監に赴任するも問題

顔に両手を当てている男性

教師になったもののまたもや問題を起こし辞職となったアンドレイ・チカチーロは、辞職後にシャフトゥイの「第33職業訓練学校」の教師兼舎監として赴任する事となりましたが、再び問題を起こしてしまいました。

ここでは授業中に自分の性器を触る癖を生徒達に馬鹿にされ、馬鹿にされた事がキッカケで少女だけでは無く「少年」に対しても目を向ける様になり、この頃に彼は連続殺人鬼としての一面を持つ事になった様です。

アンドレイ・チカチーロを題材にした作品

映画館

ロシア最強の殺人鬼、アンドレイ・チカチーロの全ての情報を紹介させて頂いた上で最後に、彼を題材にした映画や作品をまとめさせて頂きます。

2本の映画が公開されており、著書や楽曲までもが存在しているという事で、彼についてもっと知りたい方は是非映画や著書に目を通してみて下さい。

2本の映画公開

撮影前の道具

アンドレイ・チカチーロを題材にした映画は2015年までに2本公開されており、1つ目の映画は実際に起こった彼の虐殺事件を描いた作品で、2つ目の映画は小説を原作した作品となっています。

映画「ロシア52人虐殺犯・チカチーロ」

包丁を持った手のシルエット

1995年に公開された映画「ロシア52人虐殺犯・チカチーロ」は、アンドレイ・チカチーロによる連続殺人事件を描いた作品となっていて、ノンフィクション本「子供たちは森に消えた」が原作との事です。

有名映画「ミスト」に出演している「ジェフリー・デマン」が彼の役を務め話題を集めた作品でもあります。

映画「チャイルド44森に消えた子供たち」

霧の中にいる男性と怖い人

2015年に公開された映画「チャイルド44森に消えた子供たち」は、「トム・ロブ・スミス」の小説「チャイルド44」を原作とした作品です。

こちらの映画にはアンドレイ・チカチーロ役は存在しておらず、実際の事件とは少しかけ離れたスリラー映画となっています。

トム・ロブ・スミス著書「チャイルド44」

男の子の肩を抱きながら歩く女の子

映画・チャイルド44森に消えた子供たちの原作となった、トム・ロブ・スミスによる小説「チャイルド44」は、2008年に出版された長編小説です。小説を読んだ上で映画版を観るのが良いかもしれません。

スレイヤーの楽曲「サイコパシー・レッド」

綺麗なマイク

アンドレイ・チカチーロを題材とした映画や小説が存在していますが、彼を題材にした楽曲「サイコパシー・レッド」も存在しています。

アメリカ合衆国のヘビメタバンド「スレイヤー」による楽曲となっていて、多くの反響をよんだ楽曲とされているそうです。彼の事がもっと気になる方は、是非映画を観たり、小説を読んだり、楽曲を聴いてみて下さい。

アンドレイ・チカチーロは世界に衝撃を与えた殺人鬼

包丁を持っている男性

ロシア最強の殺人鬼、アンドレイ・チカチーロの虐殺事件や逮捕・判決、家族や生い立ち・結婚や題材にされた映画などをまとめさせて頂きましたが、彼は世界に衝撃を与えた凶悪な殺人鬼と言えるでしょう。

幼少期に体験した事や環境、コンプレックスによって歪んでしまったと言える彼ですが、彼が生まれ育った環境・身体の仕組みが違えばこんな事件は起きなかったと言えるかもしれません。彼の存在は一生この世に残り続ける事でしょう。

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佐々木
閲覧して下さって有難う御座います。猫と料理と音楽、映画からゲームまで色んなものが好きな佐々木です。皆様を楽しませる...

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