麻原彰晃の生い立ちとは!両親や兄弟など家族構成は?若い頃の画像やTV出演なども調査

オウム真理教の麻原彰晃こと松本智津夫の生い立ちが話題となっているようです。麻原彰晃の両親や兄弟など、家族構成は判明しているのでしょうか?また、若い頃の画像やテレビ出演歴などについても調べてみました。麻原彰晃の生い立ちや家族、若い頃について紹介します。

麻原彰晃の生い立ちとは!両親や兄弟など家族構成は?若い頃の画像やTV出演なども調査のイメージ

目次

  1. 1麻原彰晃(松本智津夫)のプロフィール
  2. 2麻原彰晃(松本智津夫)の生い立ち
  3. 3麻原彰晃(松本智津夫)の両親や兄弟など家族構成
  4. 4麻原彰晃(松本智津夫)の若い頃を色々調査
  5. 5麻原彰晃(松本智津夫)の生い立ちは貧困生活で盲学校出身

麻原彰晃(松本智津夫)のプロフィール

麻原彰晃は本名を松本智津夫と言います。逮捕以前は麻原彰晃と紹介されることが多かったようですが、逮捕後には本名の松本智津夫で紹介されることが増えたようです。麻原彰晃の生い立ちについては後ほど詳しく紹介しますが、まずは麻原彰晃の死刑執行までの経歴について見ていきましょう。

麻原彰晃の死刑執行までの経歴

麻原彰晃こと松本智津夫がオウム真理教の前身となる団体を立ち上げたのは、1984年頃のことだったようです。この頃には妻である松本知子とも結婚しており、麻原彰晃は超能力などの開発を行う「鳳凰慶林館」という学習塾を営んでいました。

この「鳳凰慶林館」がヨガの道場となり「オウムの会」に名称も変更されます。この頃から麻原彰晃は本名の松本智津夫ではなく、「麻原彰晃」と名乗り始めたとのこと。「麻原彰晃」という名前には、「アシュラ・シャカ」という意味が込められているそうです。

1986年にはヨガの道場だった「オウムの会」を宗教法人化し、「オウム神仙の会」と名称を変更します。宗教法人化した理由は、宗教法人になると税金が優遇されるという事情があったようです。この頃から麻原彰晃は「フリーメイソンと闘うことになる」など、暴力行為を容認するような発言をしていました。

ただ、この頃の麻原彰晃は、子供たちに対しては「蚊に刺されると嫌かもしれないけど蚊も生き物」、「世界には食べ物が食べられない子供もいる。食べ物を粗末にするのはやめよう」などを諭すような優しい父親だったという情報もあります。

ヨガ道場として運営されていた「オウム神仙の会」は、1987年に「オウム真理教」と名称を改めます。この時に、これまでのヨガ路線から仏教系路線への変更を麻原彰晃が指示。ヨガ道場を訪れる人などを中心に、布教活動を行っていきました。また、オカルト雑誌への広告なども積極的に出していたようです。

オウム真理教を仏教系の宗教団体へと変更することを決めた麻原彰晃は、ダライ・ラマ14世にも何度か面会。ともに瞑想をした時にダライ・ラマ14世に高く評価されたようです。このこともオウム真理教の信者を増やすきっかけとなりました。

1987年頃から麻原彰晃は暴力行為や殺人を肯定する教えを説いていたようで、1989年には男性信者殺害事件、坂本堤弁護士一家殺害事件を起こします。これらの事件が明るみに出るまでの間、オウム真理教は新興宗教ブームやオカルトブームに乗って、テレビ番組にも多数出演。若者を中心に多くの信者を獲得していきました。

1993年に麻原彰晃は「すべての魂をポアする」と宣言し、信者たちに武器の製造や化学兵器の製造を命じます。そして、薬剤師リンチ殺人事件、松本サリン事件を経て、1995年に地下鉄サリン事件を起こしました。この事件をきっかけに、オウム真理教の多数の幹部が逮捕され、麻原彰晃も逮捕されます。

逮捕された麻原彰晃は、オウム真理教が起こした17の事件で起訴されます。その事件のうち、26人に対する殺人の罪も問われました。裁判で麻原彰晃はほとんどまともな受け答えができず、弁護人が「すべては幹部たちがやったこと」として無罪を主張。しかし2006年に麻原彰晃の死刑判決が確定します。

その後も幾度かの再審請求があり、訴訟能力の有無についても議論されましたが、2013年に最高裁判所は再審を認めない決定を下しました。そして、麻原彰晃は2018年7月に死刑を執行されています。

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麻原彰晃(松本智津夫)の生い立ち

麻原彰晃の生い立ちについても詳しく見ていきましょう。麻原彰晃はどのような生い立ちをたどってきたのでしょう?また、その生い立ちは、数々の凶悪事件にどのような影響を及ぼしたのでしょうか?麻原彰晃の生い立ちについて調べてみました。

生い立ち①1955年に熊本県八千代に誕生

麻原彰晃が誕生したのは1955年です。熊本県八千代市で生を受けました。熊本県八代市は畳表の原料となるい草の生産が日本一であることでも知られており、麻原彰晃の父親も「松本畳店」を営む畳職人だったと言われています。現在も八代市のい草の生産は、国産の8割を締めているとのこと。

また、八代市にある八代港は、1890年頃から近代的な港湾として整備され、セメント工場や製紙工場、酒造工場などが建ち並ぶ八代臨海工業地域として発展しました。

生い立ち②先天性緑内障で片目はほぼ見えず

麻原彰晃は先天性緑内障を患っており、片目はほぼ見えない状態で生まれたとのことです。実はこの先天性緑内障は、水俣病の影響ではないかという説があるのだとか。麻原彰晃が生まれた熊本県八代市は、水俣病が発生した水俣市と同じ不知火海(八代海)に面しています。

麻原彰晃の家族は、長兄が全盲、弟も色弱など、目の障がいを持って生まれた兄弟が他にもいました。麻原彰晃は水俣病の患者として役所に申請をしたこともあったとのこと。しかしこの申請は却下されたそうです。

生い立ち③貧困家庭の幼少期

麻原彰晃の生い立ちを調べてみると、幼少期は非常に貧しかったことが分かりました。麻原彰晃の家族は男6人女3人の9人兄弟で、麻原彰晃は7番目の子供として生まれます。両親を合わせると、11人家族だったとのこと。

父親は畳職人をしていたものの、11人の家族を養うというのは大変なことだったようです。さらに、麻原彰晃が生まれた時には畳の需要も減り始めていた時期だったようで、なおさら生活は困窮を極めたと言われています。

生い立ち④八代市立金剛小学校から盲学校に転校

麻原彰晃は全盲ではなかったものの、片目がほぼ見えないという状態だったために、小学校を八代市立金剛小学校から盲学校に転校しているそうです。ただ、麻原彰晃は片目は普通に見えたということもあり、盲学校への転校を泣いて嫌がったのだとか。

盲学校は寄宿舎制度となっていたそうですが、授業料も寄宿舎の費用も無料だったそうです。先に紹介したように、麻原彰晃の家庭は非常に貧しかったために、寄宿舎に入れば食費がかからなくて済むという利点があります。麻原彰晃は、口減らしのために盲学校へ入学させられたのではないかとも言われているようです。

生い立ち⑤学生時代は暴力や恐喝の繰り返し

麻原彰晃は盲学校時代から、オウム真理教で起こした数々の凶悪事件を彷彿させる事件を起こしていたとされています。麻原彰晃は片目が見え、全盲ではなかったために、全盲の学生を暴力などで恐喝し、支配していたのだとか。

麻原彰晃が全盲の学生から恐喝で巻き上げた金額は、合計で300万円にもなったと言われています。盲学校の教師たちからは、麻原彰晃があまりにも凶暴なため、「退学させてはどうか?」という意見も出ていたそうです。麻原彰晃のこうした凶悪な一面は、貧困を極めた生い立ちにも関係しているのかもしれません。

麻原彰晃(松本智津夫)の両親や兄弟など家族構成

麻原彰晃こと松本智津夫の両親や兄弟などの家族構成についても見ていきましょう。麻原彰晃の実家の家族構成は判明しているのでしょうか?麻原彰晃の両親や兄弟などの家族構成について調べてみました。

麻原彰晃(松本智津夫)の家族構成

麻原彰晃の家族構成については先ほども生い立ちとして少し触れましたが、両親に兄弟が9人の11人家族です。麻原彰晃には3人の兄と2人の弟、3人の姉がいたのだそうです。麻原彰晃はこの兄弟たちの中でも、特に長兄を慕っていたと言われています。

麻原彰晃は長兄、弟とともに、盲学校に転校させられました。盲学校時代には、他の学生たちは休みの日には帰省していたそうですが、麻原彰晃の兄弟たちは、家に帰ると食費がかかるということで帰省していなかったそうです。

父親は大韓民国全羅北道益山郡春浦面生まれ

麻原彰晃の父親について、その生い立ちなどをもう少し詳しく見ていきましょう。麻原彰晃の父親はの大韓民国全羅北道益山郡春浦面で生まれたとのこと。終戦後に日本に引き揚げ、叔父を頼りに熊本県八代市に住むようになったそうです。

麻原彰晃の父親が韓国で生まれたのは、韓国人だからということではないとのこと。麻原彰晃の祖父が戦前に朝鮮半島に渡っていたため、そこで生まれたという経緯があったようです。

祖父は警察署長

麻原彰晃の祖父は日本で警察官をしていましたが、その後、戦前に朝鮮半島に渡り、そこで警察署長をしていたそうです。麻原彰晃の祖父がその後どうなったのかについては不明ですが、祖母は朝鮮半島で亡くなったとされています。

また、麻原彰晃の祖父や父親が朝鮮半島にいた経歴があったことで、麻原彰晃自身に在日韓国人説が流れたことがあったようです。ただ、調べてみたところ、麻原彰晃が在日韓国人であるという証拠は見つからなかったとのことでした。

麻原彰晃(松本智津夫)の若い頃を色々調査

麻原彰晃こと松本智津夫の若い頃についても見ていきましょう。麻原彰晃の若い頃はどのような人物だったのでしょうか?また、麻原彰晃が若い頃にはどのようなことがあったのでしょう?麻原彰晃こと松本智津夫の若い頃について調べてみました。

麻原彰晃(松本智津夫)の若い頃の画像

麻原彰晃こと松本智津夫の若い頃の画像を探してみました。こちらの画像の右側が1990年頃の麻原彰晃の画像です。1990年といえば、麻原彰晃は35歳の頃です。この頃の麻原彰晃はすでにオウム真理教を立ち上げており、衆議院議員選挙にも立候補していました。

また、男性信者殺害事件、坂本堤弁護士一家殺害事件は、この写真の2年前には起こっています。オウム真理教元幹部で麻原彰晃の愛人だった石井久子は、「中性的なヨガの先生」と若い頃の彼を表現していました。

若い頃(学生時代)の夢は内閣総理大臣?

麻原彰晃の若い頃の夢は内閣総理大臣だったという話もあるようです。調べてみると、麻原彰晃は学生時代、田中角栄や毛沢東などの国のトップの政治家に傾倒していたとのこと。麻原彰晃は東京大学法学部を卒業し、自民党の政治家となり、ひいては内閣総理大臣になることを夢見ていたそうです。

この頃の麻原彰晃は、学校の政調会長や寮長などに立候補しますが、すべて落選しています。1990年に麻原彰晃が衆議院銀選挙に立候補したのも、こうした「内閣総理大臣になりたい」という野望を叶えるためだったのかもしれません。

熊本大学医学部受験を断念

麻原彰晃は若い頃、大学の医学部に入り、医者になるという夢を抱いていたことがあったようです。医者になりたいと考えたのは、「自分のような病気を持つ人の手助けになりたい」という動機からだったとのこと。

麻原彰晃は医者になるために、熊本大学医学部を目指そうとします。しかし、視覚障害者では医師免許を取得することができないという事を知り、麻原彰晃は熊本大学医学部の受験を断念したそうです。

東大受験を諦めた後に鍼灸院を開院

熊本大学医学部の受験を断念した麻原彰晃は、政治家を目指すため東京大学文科1類の受験を決意します。1977年、22歳の頃に代々木ゼミナールに通い始め、東大への受験に挑戦しますが、3度失敗しているようです。

その後、東大受験を諦めた麻原彰晃は、妻である松本知子と結婚し「松本鍼灸院」を開院。鍼灸師として仕事を始めます。麻原彰晃の鍼灸師としての評判はかなり良かったようです。

若い頃にはテレビ出演もしていた?

麻原彰晃は若い頃、幾度かテレビにも出演しています。オウム真理教は後に数々の凶悪事件を起こしていたことが判明しますが、それ以前にはテレビなどのメディアに引っ張りだこの人気の時期がありました。一部のオカルトファンの間で麻原彰晃は、カリスマ的な人気を集めていたそうです。

ビートたけしとの対談に注目が

1991年には麻原彰晃がビートたけしと対談したことも話題となりました。この時の対談は非常に盛り上がったようで、ビートたけしは麻原彰晃のことを「麻原さんは面白い」と絶賛していたのだそうです。

こうした経緯もあり、2018年に麻原彰晃の死刑が執行された際、ビートたけしは曖昧なコメントに終始していたとのこと。結果的に自身がオウム真理教の広告塔のような役割を果たしてしまったことに、ビートたけし自身も複雑な思いを抱いていたのかもしれません。

『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』にも出演

麻原彰晃は「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」にも出演したことがあったようです。これも1991年頃のことだったようで、麻原彰晃は番組のスペシャルゲストとして出演していました。この時には「髪を洗う時にリンスをするのか?」など、かなりフランクな質問が飛び交っていたようです。

高山文彦著書『麻原彰晃の誕生』にも若い頃の様子が

高山文彦の著書「麻原彰晃の誕生」にも麻原彰晃の若い頃の様子が描かれているようです。高山文彦はノンフィクション作家で、「麻原彰晃の誕生」は麻原彰晃の周囲を丁寧に取材し、彼の幼少期からの生い立ちを客観的視点で描いた作品とのこと。レビューも高評価をつけているものが多いようです。

麻原彰晃(松本智津夫)の生い立ちは貧困生活で盲学校出身

麻原彰晃こと松本智津夫の生い立ちについて紹介してきました。麻原彰晃の生い立ちは決して恵まれたものとは言いがたく、口減らしのために盲学校に入れられるなど、性格が屈折してしまう原因となることは多々あったようです。ただ、それが地下鉄サリン事件などの凶悪犯罪を引き起こしても良い理由には決してならないでしょう。

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この記事のライター
春日つぼね

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