千代の富士(九重親方)の死因はガン!死に至るまでの経歴まとめ【横綱】

元横綱千代の富士こと九重親方の死因はガンだったということですが、どのような種類のガンだったのでしょうか?千代の富士の死因となったガンについて、さらには横綱時代の活躍や経歴についても調査。千代の富士から九重親方となってからの経歴についても併せて紹介します。

千代の富士(九重親方)の死因はガン!死に至るまでの経歴まとめ【横綱】のイメージ

目次

  1. 1千代の富士(九重親方)のプロフィール
  2. 2千代の富士の死因はガン
  3. 3千代の富士の死因「膵臓ガン」の治療過程とは
  4. 4千代の富士の死に至るまでの経歴【横綱】
  5. 5千代の富士の死に至るまでの経歴【九重親方】
  6. 6千代の富士のこれまでの成績
  7. 7千代の富士のライバル北尾(双羽黒)も早死
  8. 8千代の富士の死因は膵臓ガンで今も語り継がれる永遠の横綱

千代の富士(九重親方)のプロフィール

・愛称:ウルフ、小さな大横綱
・本名:秋元貢
・生年月日:1955年6月1日
・年齢:享年61歳(2016年7月31日没)
・出身地:北海道松前郡福島町
・血液型:A型
・身長:183cm
・体重:126kg
・活動内容:元大相撲力士
・所属グループ:九重部屋
・事務所:なし
・家族構成:妻、長男、長女、次女(秋元梢)、娘婿(松田翔太)

千代の富士の経歴

ウルフや小さな横綱との愛称で親しまれた九重親方こと千代の富士ですが、まずはその経歴から見ていきましょう。千代の富士は北海道松前郡福島町の出身ですが、家業は漁師だったそうです。そのため、千代の富士は子供の頃から漁業を手伝っていたのだとか。

漁業で足腰が鍛えられたということもあり、少年時代の千代の富士はスポーツ万能だったそうです。特に陸上の走り幅跳びや三段跳びなどは、将来のオリンピック出場も夢ではないと言われたほどだったそうです。ただ、少年時代の千代の富士は相撲は嫌いだったようです。

千代の富士が角界入りするきっかけとなった出来事ですが、何と盲腸の手術だったそうです。盲腸の手術を受けた千代の富士ですが、当時から筋肉がすごく、手術に時間がかかりすぎてしまったのだとか。そのため、途中で麻酔が切れたのですが、それでも千代の富士は耐え続けたそうです。

その辛抱強い様子を見て病院長が連絡をし、千代の山が直接スカウトに来たのだそうです。当初は千代の富士も両親も乗り気ではなかったので断っていたそうですが、「入門するなら飛行機に乗せてあげる」という千代の山の言葉で、両親の反対を押し切って千代の富士は入門を決意しました。

千代の富士の入門後の活躍や経歴については、後ほど詳しく紹介しますが、もともとあまり乗り気でなかった千代の富士をその気にさせるために、親方や周囲の人間はかなり気を配っていたようです。ただ、それだけ千代の富士が逸材であるということを親方たちも確信していたのでしょう。

周囲の期待やその才能とは裏腹に、千代の富士は大器晩成型であり、怪我にも幾度も悩まされました。そうした決して順風満帆ではない姿も、ファンにとっては千代の富士を思わず応援したくなる理由だったのかもしれません。

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千代の富士の死因はガン

元横綱千代の富士こと九重親方の死因ですが、ガンだったと言われています。61歳という若さで亡くなられたことから、その死因のガンは少し厄介なガンだったと想像ができるでしょう。元横綱千代の富士こと九重親方の死因について詳しく紹介します。

2016年7月31日に61歳の若さで死去

2016年7月31日、昭和の相撲界を牽引し続けた元横綱千代の富士こと九重親方は61歳の若さで死去されました。その死去の前には自らガンであることも周囲に明かしていたようですが、それでもあまりにも早すぎる死に多くの人が驚いたようです。

千代の富士といえば、現役引退後に九重親方となってからもスリムで筋肉質な体型を維持しており、見た目は不健康な様子には見えませんでした。そうしたこともあり、千代の富士の死はセンセーショナルなニュースとなってしまったのかもしれません。

千代の富士の死因はガン

千代の富士の死因はガンということですが、近年はガンと診断されても、それを克服して長く生きる人も少なくありません。ただ、一部のガンは治療の効果もあまり見込めず、予後が悪いということもあります。

千代の富士が患ったガンも、ガンの中では完治する可能性の低い種類のものでした。まだ61歳と若く、体力もあったはずの千代の富士ですが、この厄介なガンには打ち勝つことができず、ガンが死因で死去されてしまいます。

死因となったガンの種類は「膵臓ガン」

千代の富士の死因となったガンですが、膵臓ガンだったそうです。膵臓ガンが死因で亡くなられた有名人としては、スティーブ・ジョブズなども有名です。スティーブジョブズはアップル社の共同設立者として知られていますが、56歳という若さで亡くなられています。

また、日本でも元プロ野球選手の星野仙一が膵臓ガンが死因で亡くなられています。星野仙一の死は千代の富士の死の1年半後の2018年1月でしたが、72歳というまだ若い年齢だったことも話題となりました。

他にも膵臓ガンが死因で亡くなった有名人としては、坂東三津五郎や竹田圭吾、安倍晋太郎、井本隆などがいますが、いずれもまだ若いと言われる年齢で亡くなられているということが共通しています。

死因となった病気「膵臓ガン」とは

千代の富士の死因となった膵臓ガンですが、どのような病気なのか少し詳しく説明しましょう。膵臓ガンというのは、身体の膵臓と呼ばれる部分にできるガンのことですが、ガンの中でも発見が難しいとされています。また、その臓器の位置が身体の深いところにあるということもあり、治療が難しいガンとしても知られています。

膵臓ガンは発見が難しく治療も難しいため、死に至る可能性が高いガンでもあるようです。膵臓ガンに罹患する患者は40歳以上がほとんどだとされており、主には高齢者が発症するガンとしても知られています。

千代の富士の死去に貴乃花親方がコメント

千代の富士の死去に際して、元貴乃花親方がコメントを発表されたそうです。元貴乃花親方は現在はタレント「花田光司」として活動されていますが、千代の富士とは因縁の関係があったそうです。

千代の富士が引退を決意した理由は、元貴乃花親方こと貴花田に敗れたことだったと後にインタビューでも本人が語っておられます。取り組みが行われたのは1991年の5月場所でのことでした。貴花田は当時18歳9か月、横綱・千代の富士との対決は注目を集めましたが、勝敗ではなく横綱を相手にどこまで粘れるかに注目が集まっていました。

実際の取り組みがこちらの動画になりますが、当時千代の富士は偉大な横綱、そして元貴乃花親方こと貴花田は前頭1枚目という番付でした。この取り組みで元貴乃花親方は寄り切りで千代の富士を破り、大相撲史上最年少の金星を獲得します。あまりの出来事に、会場には座布団が大量に投げられるということがありました。

千代の富士は表情には現していませんでしたが、この時に引退をはっきり決断したのだそうです。それまでにも千代の富士には幾度も引退説が流れましたが、そのたびにそれを覆す成績を残し続けてきました。

千代の富士の訃報を聞いた元貴乃花親方は、下積み時代に千代の富士から激励されたエピソードを紹介。千代の富士は元貴乃花親方に「早く上がってこい」と励ましてくれたのだとか。元貴乃花親方はその鋼の肉体に額を当てたときは「恐る恐る」だったという当時の心境も告白しました。

千代の富士にとって元貴乃花親方は引退を決意させた人物ではありましたが、元貴乃花親方にとっても、千代の富士は特別な存在であったようです。

千代の富士の死因「膵臓ガン」の治療過程とは

千代の富士の死因となった膵臓ガンについて、さらに詳しく見ていきましょう。千代の富士は死因となった膵臓ガンが発見されてから、どのような治療を行ったのでしょうか?千代の富士の治療過程についても調査しました。

死因「膵臓ガン」早期発見からの治療

千代の富士の死因となった膵臓ガンが発見されたのは、比較的早期だったのだそうです。通常、ガンは早期発見であれば治療も効果を発揮すると言われています。また、膵臓ガンは発見された時には手遅れであることが多いということを考えれば、千代の富士の膵臓ガンの早期発見は運が良かったともいえるでしょう。

千代の富士の膵臓ガンが発見されたのは、定期検診でのことだったそうです。定期検診を受けていたからこそ、運良く早期発見できたということが言えるのかもしれません。

早期発見もガン転移発覚

千代の富士の膵臓ガンが発覚したのは2015年7月のことだったようです。その後、千代の富士はすぐに手術を受け、約1ヶ月間入院をしていたそうです。おそらくこの時には手術によってガンをある程度は取り除くことができ、その症状も落ち着いていたものと見られています。

ただ、翌年の2016年になって膵臓ガンの再発が判明し、すでに胃や肺などにも転移していることが明らかになりました。千代の富士は鹿児島県の有名な病院で放射線治療を受けていたと言われています。この病院は樹木希林なども治療を受けた病院として知られています。

千代の富士は抗がん剤治療を拒否

実は千代の富士は膵臓ガンが発見されて摘出手術を受けた際に、すべてのガンを手術で取り除くことは無理だということが判明し、抗がん剤治療を提案されていたそうです。ただ、千代の富士はこれを拒否して放射線治療を選択したのだとか。

抗がん剤による治療は、激しい副作用などを伴うということもあり、身体の負担が大きいとされています。それに比べると、千代の富士の選択した鹿児島での放射線治療は、身体への負担が少ないとも言われているそうです。

四次元ピンポイント照射療法によるガン治療

千代の富士が選択した放射線治療を行っているのは、鹿児島県にある「UMSオンコロジークリニック」という病院なのだそうです。この病院は樹木希林が通っていたとされる病院でもあります。樹木希林は最終的にガンが死因でなくなりましたが、ガンが成長するたび放射線をあてて小さくし、その症状を緩和していたと言われています。

千代の富士や樹木希林が受けた治療というのは、四次元ピンポイント照射療法によるガン治療だったそうです。この治療方法は、健康な臓器に負担をかけないようにピンポイントで放射線をあてるという画期的な治療法なのだそうです。

ただ、この治療は保険適用外の治療となるために、費用が150万円から500万円ほどもかかってしまうのだとか。実際に治療を受けた人の話によると、筋肉痛のような痛みが後から来ることはあるものの、ほとんど身体への負担はないそうです。

樹木希林や千代の富士はガンが死因で亡くなられましたが、この治療で効果を得たという人もおり、治療を受けるためには鹿児島県まで出向く必要があるにも関わらず、現在も多くの人がこの病院を利用しているのだそうです。

晩年は激ヤセ姿に心配の声も

2015年に膵臓ガンが早期発見された千代の富士ですが、翌年の2016年にはガンが再発し、その後は激ヤセした姿が見られるようになりました。千代の富士は自身がガンであることは公表していましたので、多くの人が心配をしていたようです。特に2016年3月頃からはその激ヤセぶりが加速していたとも言われています。

千代の富士は死の直前まで仕事をしており、2017年7月場所にも監察委員として出勤していました。ただ、その時には「きついなあ、きついよ」と千代の富士にしては珍しい弱音を吐いているのを元横綱・武蔵丸が聞き、驚いたというエピソードも伝わっています。

千代の富士の死に至るまでの経歴【横綱】

千代の富士が横綱として活躍するまでの経歴、横綱となってからの経歴について改めて見ていきましょう。61歳という若さで死去した千代の富士ですが、現役時代はどのような活躍をしていたのでしょうか?

経歴①1970年9月に初土俵を踏む

千代の富士が初土俵を踏んだのは、1970年9月のことでした。この時の千代の富士の年齢は16歳で、まだ身長は伸びている途中ということもあり、「小さかった」という証言もあるようです。

この初土俵の際の千代の富士は「秋元」という本名で土俵に上がっていたそうです。当時の千代の富士の印象を同じ部屋の先輩横綱であった北の富士は、「物怖じしない子」だったと語っていたそうです。北の富士が自分のことを知っているか尋ねても「知らない」と答え、さらに「大鵬なら知ってる」と言ったのだそうです。

大秋元から千代の富士に

初土俵の2ヶ月後の11月場所には、千代の富士は本名の「秋元」から「大秋元」に改名したのだそうです。さらに翌年の1971年1月場所には「千代の冨士」に改名しました。この四股なの由来ですが、当時の九重親方の現役時代の「千代の山」と、部屋の横綱である「北の富士」の名前からとったとされています。

当時の九重親方など、部屋からの期待は大きかったと言われる千代の富士ですが、相撲にはなかなかなじめず、故郷へ帰ろうとしたこともあったのだそうです。それを引き留めるために当時の九重親方などは、千代の富士を明治大学付属中野高校定時制に進学させるなどの引き留め作戦を行ったと言われています。

経歴②幕内幕下の行き来と左肩脱臼

1975年の9月場所で新入幕を果たした千代の富士ですが、元大関・大受から白星を奪うなど、器の大きさを見せる場面もありました。しかし、その後は成績にばらつきが出てしまい、新入幕となったこの場所は負け越してしまいます。

幕下に陥落した千代の富士は度重なる肩の脱臼に悩まされ、その後も幕内と幕下を行き来するという不安定な成績の日々が続きました。ただ、千代の富士は脱臼しやすい肩を補強するために毎日500回の腕立て伏せを行うなど、肩の周囲を筋肉で固めることで脱臼癖を克服したのだそうです。

経歴③幕内初優勝と三役昇進

日々のトレーニングによって筋力アップを図った千代の富士は、1980年3月場所から幕内上位に定着するようになり三役に昇進します。相撲の技術も大幅にアップし、それまでは力業で勝っていたものを、しっかりとまわしを取って寄り切って勝つというスタイルとして完成させました。

千代の富士はもともと相撲の才能やセンスがあったとも言われていて、幕内上位に定着するようになってからは、大関や横綱を次々と倒し、人気を得ていきます。そして、1981年の1月場所に千代の富士は幕内優勝を果たし、大関昇進が決定しました。

経歴④千代の富士ウルフフィーバー

新大関となってからの千代の富士も強く、1981年の3月場所では11勝4敗、さらに2ヶ月後の5月場所では13勝2敗とし、優勝争いにも食い込みました。そして、ついに横綱昇進がかかった7月場所には、横綱・北の湖を破って優勝を決め、文句なしの横綱昇進が決定しました。

横綱昇進後の千代の富士は決して順風満帆ではなく、幾度も怪我に悩まされ、休場を余儀なくされたこともありました。しかし、そのたびに復活を果たし、千代の富士は国民的な人気を集めます。こうした千代の富士の人気は「ウルフフィーバー」とも呼ばれました。

経歴⑤横綱千代の富士の国民栄誉賞受賞

1989年に千代の富士は大相撲の力士としては初となる国民栄誉賞を授与されています。実はこの1989年という年は、千代の富士にとっては辛い年でもありました。2月に誕生した三女が、生後4ヶ月で乳幼児突然死症候群によって死去してしまったのです。

この時、傍で見ていた師匠の九重親方も、千代の富士はもう相撲が取れないのではないかと案ずるほどの憔悴ぶりだったそうです。ただ、それでも千代の富士は土俵に立ち続け、9月場所では優勝を果たし、通算勝ち星の新記録を樹立。これらの功績に対して、国民栄誉賞の授与が決定したのだそうです。

千代の富士の死に至るまでの経歴【九重親方】

大相撲を引退し、九重親方となってからの千代の富士の経歴についても見ていきましょう。九重親方となった千代の富士は、どのような活躍をされてきたのでしょうか?

経歴①1991年5月場所にて横綱引退

先ほども紹介しましたが、千代の富士は1991年5月場所で引退を決意します。ご本人が話されていた引退の決定的な理由は、貴花田こと元貴乃花親方に敗れたことでした。ただ、それ以前にも、千代の富士は幾度も引退の危機がありました。

しかし、横綱が千代の富士ただ1人という期間も長く、引退が許されないという空気もあり、満身創痍になりながら、千代の富士は土俵に立ち続けていたようです。引退を決めたとき、千代の富士は「体力の限界、気力もなくなった」とコメントしています。

引退の場所となった1991年の5月場所は、その前の3月場所に休場していたということもあり、万全の状態ではなくても千代の富士の休場は許されない状況だったようです。その5月場所の初日が元貴乃花親方こと貴花田との対戦でした。

貴花田に敗れた後も千代の富士は土俵に上がり続けましたが、「もう1度負けたら辞める」と決めていたそうです。そして、2日目は勝ったものの、3日目の貴闘力戦で負けてしまいます。この取り組みの後、千代の富士は引退を発表しました。

1000勝達成後の引退

千代の富士は引退前に前人未踏の1000勝を達成しています。この1000勝の達成は、引退前年の1990年3月場所でのことでした。7日目に花ノ国戦に勝利したことで、千代の富士はこの大記録を達成しています。その前の場所である1月場所では、優勝回数が30の大台に乗ったところでした。

その後の千代の富士はしばらく優勝から遠ざかってしまいました。年齢的にも35歳ということで、「引退」の2文字も囁かれ始めていたようです。ただ、11月場所には再び優勝し、横綱としての意地を見せていました。それだけに千代の富士の引退は、「今までよくやった」とファンたちも感慨深いものがあったようです。

経歴②九重親方としての活躍

大相撲を引退した千代の富士は、九重親方として後進の育成のための活動を始めます。1992年に千代の富士は師匠の九重親方と名跡交換し九重部屋を継承します。ただ、当初はさまざまなトラブルもあったようです。

元九重親方は陣幕親方となったのですが、部屋の運営に関してさまざまな考えの違いなどがあり、部屋の力士との折り合いが悪くなってしまったのだとか。そこへ元横綱・北勝海が九重部屋から独立するということになり、この時に多くの力士や年寄りが新しい部屋に移籍することになったのだそうです。

しかも、元横綱・北勝海は九重部屋から独立という形を取ったものの、最終的に部屋の施設などは元横綱・北勝海が継承することになってしまい、千代の富士は自宅を改装して新しい部屋を作ることになったのだそうです。

九重親方としての千代の富士は、相撲に対しては非常に厳しかったそうですが、力士との交換日記などをずっと続けていたようです。また、力士が怪我をした際には決して無理をさせず、必要であれば休場させることも辞さないという姿勢を貫きました。

さらに、怪我やさまざまな事情で部屋を去って行った弟子たちのことも、千代の富士は親方としてずっと気にかけていたと言います。ある弟子が飲食店で働くことになったと聞けば、その弟子が働く飲食店に足を運び、激励することもあったそうです。それも1度や2度のことではないと言います。

こうした九重部屋の親方としての千代の富士の存在があったということもあり、現在も九重部屋では元力士たちが集まる同窓会のようなものが開かれ、何年経っても千代の富士の弟子としての絆が揺らぐことはないと言われています。

経歴③2015年に還暦土俵入り

1991年に土俵を去った千代の富士ですが、還暦を迎えた2015年に「還暦土俵入り」をしたことも話題になりました。これは6月1日の誕生日の前日の5月31日に行われたもので、「還暦土俵入り」は千代の富士で10人目となったそうです。

千代の富士の「還暦土俵入り」は露払いを日馬富士がつとめ、太刀持ちを白鵬がつとめましたが、両者を現役の横綱がつとめるというのは初めてのことだったそうです。還暦にちなんで千代の富士は、太刀持ちの袱紗やこれまで白だった赤い綱の御幣も赤にするなど、赤の色にこだわりを見せていたそうです。

千代の富士のこれまでの成績

千代の富士の現役時代の成績についても改めて見ていきましょう。偉大な横綱として今も語り継がれる千代の富士ですが、現役力士時代はどのような成績を収めていたのでしょうか?

千代の富士の通算成績

まずは千代の富士の現役時代の通算成績について見ていきましょう。千代の富士の現役時代には125場所ありましたが、生涯戦績としては1045勝437敗159休だったそうで、勝率としては勝率.705となります。

千代の富士の初土俵は1970年9月場所、初入幕は1975年9月場所、引退は1991年5月場所となります。大関・横綱となって以降の千代の富士は、横綱の義務とされる2桁勝利を守り続け、皆勤した場所で1桁勝利だったことはなかったそうです。

千代の富士の連勝記録も調査

また、千代の富士の連勝記録についても調べてみました。千代の富士の最多連勝記録は53連勝だったようです。この記録は昭和以降では双葉山、白鵬に次いで第3位の記録となっているそうです。

この他にも千代の富士は20連勝以上を7回記録しており、30連勝以上を1回記録しています。最多連勝の53連勝は1988年5月場所7日目から1988年11月場所14日目までの記録で、この連勝を止めた力士は大乃国でした。

千代の富士の優勝回数

千代の富士はその優勝回数も記録的なものでした。千代の富士の幕内での優勝回数は31回となっており、これも歴代3位の記録となっています。この優勝回数のうち、全勝優勝は7回あります。これは北の湖と並んで歴代4位タイの記録なのだそうです。

また、優勝決定戦にもつれこんだ場所も6回ありましたが、これはすべて千代の富士が相手を下して勝利し、優勝しています。また、優勝がもっとも多かった場所ですが、千代の富士の夫人の故郷でもある九州場所だったようで、31回の優勝のうち9回が九州場所でした。

千代の富士のライバル北尾(双羽黒)も早死

千代の富士のライバルとして名前があげられる力士には、北尾(双羽黒)がいます。千代の富士は61歳という若さでなくなってしまいましたが、実はこのライバルの双羽黒も55歳の若さでなくなっています。千代の富士のライバルとされた元横綱・双羽黒こと北尾光司について紹介します。

ライバル北尾(双羽黒)とは

千代の富士のライバルとされた元横綱・双羽黒ですが、小学校時代から相撲が好きで、中学校卒業と同時に立浪部屋に入門し、角界入りを果たしています。初土俵は1973年の3月場所で、この時の四股名は本名である「北尾」でした。

北尾は和暦では昭和38年の生まれで、この昭和38年生まれの力士が注目を集めていたことから「花のサンパチ組」とも呼ばれました。「花のサンパチ組」には他に、元横綱・北勝海、小錦、寺尾などがいたそうです。

北尾は千代の富士が1人横綱として奮闘していた1986年の9月場所に横綱に昇進し、四股名を双羽黒としました。双羽黒は千代の富士と張り合うことのできる横綱として期待を背負っていましたが、横綱昇進の翌年に突然部屋を脱走し、そのまま廃業という形で土俵を去りました。

双羽黒が部屋を飛び出した理由ですが、ちゃんこの味を巡る親方とのトラブルだったと言われています。千代の富士は自身のライバルでもあった双羽黒の強さを認めていたといい、トラブルによって土俵を去ったことについてとても残念がっていたと言われています。

2019年2月に55歳の若さで死去

部屋を飛び出して力士を廃業した双羽黒ですが、その後はボクシングやアメリカンフットボールなどからのスカウトもあったようです。しかし、本名の北尾光司として「スポーツ冒険家」の肩書きでタレント活動をするという道を選びました。

北尾光司は週刊プレイボーイやビッグコミックスピリッツなどで人生相談のコーナーを担当するなど、幅広い活動を行っていたようです。さらに1990年からはプロレスに転向し、東京ドームで新日本プロレスからプロレスラーとしてデビューしました。

1991年までプロレスラーとして活躍した北尾光司ですが、その後は総合格闘家の道を模索し始めます。1992年にはUWFインターナショナルから総合格闘家としてデビューし、1994年には格闘技の塾「北尾道場」を創設、1998年の引退まで総合格闘家として活動しました。

2003年には立浪部屋のアドバイザーとして一時的に角界に復帰した北尾光司ですが、その後はナイフのデザイナーなどをしているという風の噂がある程度で、消息は分かりづらくなっていました。そして、2019年2月に55歳の若さで死去したことが報じられます。

北尾の死因は慢性腎不全

北尾光司の死因ですが、慢性腎不全と発表されたようです。実は北尾光司は2013年頃から腎臓を患っていたようで、闘病生活を送っていたとも言われています。この頃から角界と北尾光司との連絡は途絶えていたようで、そのために消息不明ということになっていたようです。

北尾光司は千葉県にある病院で慢性腎不全のために死去されたとされており、葬儀は本人の希望で妻と娘だけが列席した家族葬として執り行われたそうです。北尾光司の死後、夫人がテレビに出演してその晩年を語ったことで、闘病生活や最期が明らかになりました。

横綱など力士は短命?

千代の富士も北尾光司も、平均寿命から考えるとかなりの短命です。一般的に力士の寿命は一般人と比べると短いとも言われています。力士は体重を増やすために食べては寝てを繰り返す必要があり、その一方で激しい稽古も必要です。ですので、心臓病や糖尿病、高血圧といった持病を患っている親方も多いのだそうです。

千代の富士や北尾光司の場合は、横綱という地位にあったことで多大なストレスも降りかかってきます。こうした現役時代の無理が、土俵を去った後に一気に押し寄せてくるということも少なくはないそうです。千代の富士や北尾光司の短命も、横綱という力士としての最高位での活躍の代償であるとも考えられます。

千代の富士の死因は膵臓ガンで今も語り継がれる永遠の横綱

九重親方こと元横綱・千代の富士の死因やその経歴について詳しく紹介してきました。千代の富士の死因は膵臓ガンで、2016年7月に死去されました。享年は61歳です。千代の富士は抗がん剤治療については拒否し、鹿児島の病院で放射線治療を行っていたそうです。

現役時代の千代の富士は多くの怪我にも悩まされましたが、それに打ち勝つ姿が多くのファンの心を惹きつけ、偉大な横綱として現在も語り継がれています。今後も千代の富士の偉業は永遠に残り続けることでしょう。

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この記事のライター
春日つぼね

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