【江川事件】空白の一日の全貌!ドラフトで何が起きた?小林繫とのトレードなど調査

1978年のドラフト会議で起きた「江川事件」について解説します。「空白の一日」と呼ばれたこの事件はどういった内容だったのでしょうか?江川事件における、江川卓が断固として巨人入りを希望し、結果的に小林繁とのトレードが行われるまでを紹介します。

【江川事件】空白の一日の全貌!ドラフトで何が起きた?小林繫とのトレードなど調査のイメージ

目次

  1. 1江川事件の概要
  2. 2江川卓のドラフトの歴史
  3. 3江川事件と言えば「空白の一日」
  4. 4江川事件と小林繫の関係とは
  5. 5江川事件のその後の野球界
  6. 6江川事件の空白の一日は野球界に大きな影響を与えた

江川事件の概要

未だに阪神と巨人の関係性を語る上で、無視できないのが「江川事件」だと考えられています。現在は野球解説者として知名度の高い江川卓ですが、彼のプロ野球入団に関わるトラブルは、野球史において忘れられない出来事と言えるかもしれません。江川事件がどういったものだったのか解説します。

1978年に起きたドラフト会議前日の騒動

基本的にプロ野球球団に入団する場合、ドラフトか自由契約を利用することになります。特に高校生は一部の例外を除いて、プロ志望届を提出して、ドラフトに参加することで指名される可能性が生まれるのです。

現在のドラフト指名制度と違って、当時は球団側が選手を指名する「逆指名」というものがありました。しかし、この制度は大学生と社会人にだけ適用されるものであり、高校生はあくまで球団側から指名され、複数の場合は抽選で選ばれるという仕組みです。

後ほど詳しく説明しますが、江川事件は1978年にドラフト会議でクラウンライターライオンズ(現在の西武ライオンズ)が江川卓の指名権を獲得したものの、断固巨人を志望する意思を尊重して、交渉を断念しました。

そのタイミングで巨人は西武ライオンズと江川卓の独占交渉権は、ドラフト会議前々日の21日午前0時を持って消滅し、空白の一日が出来きたと考えていたのです。学校を卒業して、社会人野球にも属していない状態の江川卓は22日のドラフト会議の対象ではなく、契約を行うことが出来るという理屈でした。

江川事件の主要人物は「江川卓」

江川事件の主要人物は「江川卓」です。当時、この出来事が大きなニュースとして取り上げられ、なおかつ、空白の一日に対して巨人以外の球団が「野球協約の精神に反する」と反対したことで、さらに大きな出来事となったのです。

巨人は自分たちの方法に問題はないと判断し、翌日のドラフト会議を欠席。史上初めての11球団だけでのドラフト会議が行われました。ドラフト会議は通常通りのルールで行われ、各球団が1位指名をする方式となったのです。

江川卓を指名したのは、南海ホークス、阪神タイガース、ロッテオリオンズ、近鉄バファローズです。抽選の結果、阪神タイガースが江川卓の指名権を獲得したものの、巨人は「ドラフトは全球団の出席を持って効力を有する」として、ドラフト会議自体を無効だとしていました。

事態は巨人のセ・リーグ脱退の可能性にまで発展していた中、阪神は江川卓と入団交渉を行いました。そして結果的に行われたのが、一度、江川卓と入団契約を交わしてから巨人と交換トレードを行う、というもの。

その時に交換要員として選ばれたのが、当時、巨人でエースだった小林繁だったのです。トレードは行われたものの、阪神と巨人の間には大きな溝が出来、江川卓は阪神ファンから強烈なバッシングを受けることになります。これが空白の一日を含めた江川事件の概要です。

江川卓のプロフィール

江川卓は1955年5月25日生まれで現在65歳です。福島県いわき市出身の元プロ野球選手です。読売ジャイアンツに所属した選手ですが、先述の通り、一瞬だけ阪神タイガースに在籍したことになります。

高校時代は作新学院のエースとして活躍しており、どの球団も江川卓を獲得したいと考えていたのだとか。しかし、江川卓は巨人以外の選択肢を考えておらず、3度に渡ってドラフトを行うことになりました。

巨人入団後は通算9年と短期間ながら135勝72敗、通算防御率3.02でした。最多勝利2回、最優秀防御率1回、最多奪三振3回、最高勝率2回など、様々なタイトルや表彰を受けています。

江川卓を評価する上ではドラフト騒動や徹底した巨人へのこだわり、そして右肩の故障がなければ、さらに記録を残せた、と推測する人が多いとのこと。江川事件に巻き込まれた阪神ファンでさえ、「江川憎し」と同時に、選手としての能力の高さは評価せざるを得ないと感じていたそうです。

巨人がドラフト会議前日に江川卓と入団契約

江川事件は江川卓の徹底した巨人入団希望が大きな理由だったと言えるでしょう。現在はもちろんですが、当時の巨人は長嶋茂雄監督、世界のホームラン王・王貞治、後に3000本安打を達成する張本勲など、スーパースターが在籍する球団でした。

巨人は球界の盟主であり、時には強引とも取れる手段を使用することがあり、江川事件もその1つだったと言えるかもしれません。空白の一日がルール違反であるかは未だに議論がありますが、それでも江川卓は巨人に入団したかった、という気持ちが強かったのでしょう。

この江川事件を巡っては、選手が自分の所属する球団を選べないため、憲法第22条第1項の「職業選択の自由」に反するのでは、という議論も起きたのです。また、江川卓の3度に渡るドラフト騒動は、球団の親会社問題にまで発展しており、読売グループと西武グループの遺恨にまで発展しています。

江川卓のドラフトの歴史

空白の一日が起きた江川事件。江川卓は江川事件が起きるまでに2度のドラフト問題を起こしています。江川卓の高校時代、大学時代のドラフト指名拒否に関するエピソードを解説します。

高校時代に初のドラフト1位で指名も拒否

甲子園で結果を残した選手の多くは、そのまま高校生としてドラフトにプロ志望届を出すことが多いようです。江川卓は1973年に作新学院のエースとしてノーヒットノーランや春の甲子園での大会通算最多奪三振記録など、逸材と言える存在でした。

高校時代に指名された球団は阪急ブレーブス

そのため、スカウトも江川卓がプロ志望届を出すと思っていたところ、本人と父親は大学進学を希望し、慶應義塾大学を考えていたことが明らかになりました。1973年オフに行われたドラフト会議で阪急ブレーブスが1位で江川卓の独占交渉権を獲得。他の球団は進学希望の江川卓の指名を避けています。

大前提として、当時のドラフトはくじで「球団の指名順位を決定する」、というものでした。つまり、くじで1番目を引けた人は、好きな選手を指名出来る形でした。阪急ブレーブスは6番目だったものの、それでも指名出来たほど、各球団は江川卓の進学の意思は固いと感じたようです。

江川卓はドラフト会議後に「プロへ全く行く気はない」、「指名されても考えは変わらない」、「出来ればセ・リーグに指名されたかった。それも巨人に指名されて断りたかった」と発言しています。こういった発言の理由は、江川卓が「自信がない」、「他にも可能性が残されていると感じている」ということが関係していました。

大学時代のドラフト1位指名も拒否

江川卓は慶応大学で法学部や文学部などを受験したものの、すべて不合格。その後に、法政大学第二法学部政治学科を受験して合格しています。法政大学でも絶対的なエースとして活躍しました。大学4年生になった江川卓は、元衆議院議長で母校の作新学院の理事長兼院長の船田中を訪問することになります。

江川卓は自身のプロ球団との交渉を船田中に一任したのだとか。その結果、船田中は記者会見で「江川君は巨人を強く望んでいる」と発表したのです。また、各球団にそのことに対して話し合いの上で、善処することを望んでいます。

政界の大物である船田中の要望に対して、野球界は猛反発。指名は自由、という形でドラフト会議を迎えることになりました。

大学時代に指名された球団はクラウン(現在の埼玉西武ライオンズ)

江川卓にとって2度目となったドラフト会議ですが、クラウンライターライオンズ(現在の西武ライオンズ)が指名権を獲得。しかし、この指名を拒否しています。

指名拒否の理由として、「関東に住む(当時のクラウンライターライオンズは福岡が本拠地)自分には馴染みが少ない」、「球団が遠隔地で、自分の関係者がプレーを見られない」というものでした。当時のパ・リーグは現在と比べて人気が低く、観客動員数も少なかった、という背景もあります。

3度目のドラフトが江川事件に

クラウンライターライオンズへの入団を拒否した江川卓は、野球浪人を決断。アメリカの大学野球部で公式戦には登板できないものの所属してトレーニングを積むことを選びました。こういった背景がある中で、江川卓は3度目のドラフトで江川事件を起こすことになったのです。

江川事件と言えば「空白の一日」

江川事件において、もっともトラブルの原因となったのが「空白の一日」かもしれません。どうしても巨人に入りたかった江川卓と、どうしても江川卓が欲しかった巨人。双方が考えた末に選んだ方法は、物議を醸す手段だったのです。

巨人軍が生んだ空白の一日

巨人が選んだのは、江川卓がクラウンライターライオンズとの交渉権が消滅し、ドラフト会議にかかるまでの間の一日で契約を結んでしまったのです。巨人対その他の球団の構図が出来上がり、スポーツマンシップや野球協約など、様々な点から問題だと指摘されています。

巨人のドラフトボイコット騒動

空白の一日に絡んで問題だったのは、巨人が取った「ドラフトボイコット」でした。江川卓の契約は野球協約上、問題ないというスタンスだったのです。そのため、ドラフトを欠席することを発表し、実際に巨人抜きで1978年のドラフト会議は行われました。

コミッショナーの金子鋭は巨人に反省を促しており、他球団はそのやり方を賛成したものは無かったと考えていたそうです。巨人側はドラフトを無効だと言い出したものの、「あくまで巨人が勝手に欠席した」という扱いになりました。

こういったことから、ドラフトで江川卓との交渉権を得た阪神タイガースの権利が認められました。ただし、先ほどのコミッショナーである金子鋭は江川卓を一度、阪神に入団させて、トレードと言う形で巨人入りさせるのがベストだとアドバイスしたと言われています。

当時の長嶋茂雄の発言にも注目が

当時、巨人の監督だったのは「ミスタープロ野球」こと長嶋茂雄でした。しかし、長嶋茂雄は一連の騒動に対して「寝耳に水。どうなっているんだろう」と蚊帳の外のような発言をしています。

巨人軍と江川卓の関係

巨人にとって江川卓とはどういう選手と言えるのでしょうか?空白の一日は1978年のシーズンオフに起きましたが、このとき巨人は2位でシーズンを終えています。チームとしてはあともう一歩届かなかった優勝のピースを求めていた状態だったと言えるかもしれません。

江川卓獲得のための空白の一日作戦

江川事件において、巨人としても江川卓入りをどうしても譲れなかった、という点があるかもしれません。実力は間違いなしの選手だったからです。また、江川卓もその才能を発揮する場所として、巨人以外は考えていなかったのかもしれません。空白の一日はドラフト制度の隙間をついた、禁じ手と言えるでしょう。

江川事件と小林繫の関係とは

江川事件において忘れてはならないのは、悲運の存在となった小林繁です。江川事件に完全に巻き込まれる形となってしまい、チームを移籍することになりました。そんな江川事件における小林繁について解説します。

小林繫のプロフィール

小林繁は1952年11月14日生まれで2010年1月17日に57歳で亡くなりました。鳥取県立由良育英高等学校、全大丸(大丸の社会人野球部)、そして1973年に読売ジャイアンツに入団しました。独特なサイドスロー投法で活躍し、巨人だけでなくリーグを代表する選手となっていたのです。

巨人の選手として活躍していた小林繁ですが、江川事件に巻き込まれる形で阪神タイガースにトレード。その胸中は複雑だったものの、「野球が好き」、「これからもずっとやっていきたい」という気持ちからトレード案を承諾したとのことでした。

ちなみに、当時結婚していた妻とは江川事件の前日に大げんかしており、その後も騒動の中で仲直りすることが出来ずに離婚。引退後は野球解説者や近鉄バファローズなどのコーチを務めています。しかし、2010年に突然の体調不良から、1月17日に57歳の若さで心筋梗塞のため亡くなっています。

小林繫は江川事件に欠かせない人物

小林繁は江川事件に欠かせない人物だと言えるでしょう。本人はまったく事件とは関係ないところで巨人の選手として活躍していたのに、突如阪神と交換トレードの形で江川卓と入れ替わることになったのです。

江川事件と小林繫のトレードで解決?

江川事件は江川卓と小林繁の巨人・阪神間のトレードで決着を見ました。しかし、この決着に対して世論やマスコミは厳しいバッシングを行っています。江川卓自身も「人に迷惑をかけないという信念でやってきた」と、あくまで他の選手を巻き込むような形は望んでいなかったことを告白していたのです。

江川卓は阪神関係者だけでなく、巨人の選手からもあまり良い対応をしてもらえなかったのだとか。聞こえるところで悪口を言われたり、守備でわざとエラーをしたり、という噂が残っています。

江川事件のその後の野球界

江川事件のその後の野球回はどうなったのでしょうか?空白の一日を生み出してしまった野球規約や江川卓自身について調査しました。また、江川事件に巻き込まれた小林繁との関係性についても紹介します。

江川事件により野球規約に変化が

空白の一日が起きたのは、当時の野球規約に抜け穴があったためだと言えるでしょう。江川事件が起きたのは、江川卓はクラウンライターライオンズとの交渉権が消滅していたこと、そして、ドラフト対象外状態になっていたことです。

当時の野球規約では、各球団のドラフト対象となる選手は「日本の中学・高校・大学に在学している者」というものでした。江川卓はあの空白の一日のタイミングでどの学校にも、社会人野球にも所属していなかったのです。

そういった特別な状態になった江川卓の一日を狙って、巨人は契約を済ませてしまったのでした。この出来事を繰り返さないために、野球規約は「日本の中学・高校・大学に在学した経験のある者」と変更しています。

改めて江川事件が起きたのは、江川卓が「ドラフト対象外の選手」だったことが重要だったと言えるでしょう。極端な言い方をすれば「フリーの選手と契約した」、というわけです。

江川卓の巨人入りその後も江川事件の印象は消えず

江川卓はプロ野球選手として、素晴らしい成績を残したと言えます。しかし、江川事件の印象は消えることは無かったと言われています。同時にそれは、江川事件に巻き込まれた小林繁も同様でした。

小林繁は「ジャイアンツだけには負けたくない」という気持ちから、巨人戦に合わせたローテーションを組むよう、監督に依頼。その結果、小林繁は巨人戦8連勝という記録を残しました。しかし、小林繁自身はチームのためでなく、自分のためだけに野球をやったことを公開していたとのことです。

小林繁は次第に、自分の巨人戦の勝ち負けや江川卓との投げ合いにヒートアップする周囲に対し、嫌気がさすようになったとのこと。何よりも「悲劇のヒーロー」というイメージがたまらなく嫌だったそうです。江川卓の場合も、阪神戦における誹謗中傷は凄まじいものでした。

江川卓の現在

江川卓は現在、野球解説者として活動しています。また、小林繁が亡くなる直前に和解を果たしました。それは、2007年の秋に収録された、博報堂の黄桜のCMでした。黄桜のCMで江川卓と小林繁が日本酒を飲みながら対談する形で、CMのテーマも「両者の和解」となりました。

2人がきっちりと顔を合わせたのは、空白の一日から28年ぶりだったのです。いつも堂々としている江川卓も小林繁の前では申し訳ない、という気持ちが全面に出ていたと言えるかもしれません。同時にCM撮影の中で、江川卓は「当時、球団には金銭トレードでの移籍を依頼した」ことを明かしています。

小林繁は低姿勢な江川卓に対して、「もう風化してるよ」と優しく語りかけているのです。同時に「阪神が出す最大の条件で自分が選ばれる想像はあった」と正直な気持ちも明かしました。また、過去に江川卓と小林繁はレストランで顔を合わせたものの、小林側が謝罪を断ったというエピソードも明かされています。

改めてそのことを振り返りながら、2人は「時間が必要だった」と考えていたことも明かされたのです。小林繁の言葉からは、何かある度に「空白の一日」が取り上げられる辛さが表現されていた、と言えるかもしれません。

江川事件の空白の一日は野球界に大きな影響を与えた

球史に残る大事件となった江川事件。28年ぶりの対談から、2人は江川事件を「人によって作られた」と考えていたことが伝わってくるのではないでしょうか?巨人にこだわった江川卓ですが、そのために他の選手を巻き込むようなことはしたくなかった、というのも本音だったのでしょう。

野球界全体に大きな影響を与えた江川事件。当時からかなりの期間が経ちましたが、いまでも空白の一日の話題が取り上げられるのが事実のようです。その後も、ドラフトに絡んだトラブルというのは決して消えたわけではありません。改めて、江川事件を振り返ることも野球界には必要と言えるでしょう。

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この記事のライター
浅倉恭介
ギターと野球と料理が好き。犬が飼いたい! もともとは接客業界で働いてました その後は保育業界に。 ロ...

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