藤本敏夫の半生!死因は?加藤登紀子との結婚や娘の現在も!

学生運動の指導者として知られる藤本敏夫さんの半生についてまとめました。若くして志し半ばに死去された藤本敏夫さんの死因は何だったのでしょうか?加藤登紀子さんとの結婚や娘の現在についても調査しました。また、藤本敏夫さんの恋人や浮気の噂についても合わせて紹介します。

藤本敏夫の半生!死因は?加藤登紀子との結婚や娘の現在も!のイメージ

目次

  1. 1藤本敏夫さんのプロフィール
  2. 2藤本敏夫さんの半生
  3. 3藤本敏夫さんの死因は何?
  4. 4藤本敏夫さんと加藤登紀子さんは獄中結婚!
  5. 5藤本敏夫さんの娘の現在
  6. 6藤本敏夫さんの半生は波乱万丈だった

藤本敏夫さんのプロフィール

恋人や浮気、彼女の噂も気になる藤本敏夫さんですが、どのような人なのでしょうか?藤本敏夫さんはこれまでどのような活動をしてきたのでしょう?藤本敏夫さんのプロフィールについて詳しく見ていきましょう。

藤本敏夫さんの経歴

・愛称:???
・本名:藤本敏夫
・生年月日:2002年7月31日
・現在年齢:享年58歳
・出身地:兵庫県西宮市甲子園
・血液型:???
・身長:???
・体重:???
・活動内容:学生運動指導者、有機農法実践家、大地を守る会初代会長
・所属グループ:なし
・事務所:???
・家族構成:妻(加藤登紀子)、長女、次女、三女

藤本敏夫さんは1963年に新聞記者を志し、同志社大学で新聞学を専攻します。その後は学生運動に身を投じ、同志社大学に在学しながら明治大学を拠点に活動していた時期もあったようです。

1969年に学生運動から離脱して以降は、日本キューバ文化交流研究所事務局長に就任したり、有機農業の普及に関わるなど、文化人としての活動がウエイトを占めていったようです。

藤本敏夫さんの半生

藤本敏夫さんの半生は波瀾万丈だと言われています。いったいどのような人生を歩まれたのでしょうか?生前の藤本敏夫さんの歩まれた道について調べてみました。

1944年に兵庫県で生まれる

藤本敏夫さんが生まれたのは1944年のことでした。終戦が1945年ですので、戦中の生まれと言うことになるようです。出生地は兵庫県西宮市甲子園でした。

藤本敏夫さんの幼少期についても調べてみましたが、戦中戦後の混乱期だったと言うこともあるのでしょうが、詳細な情報は分かりませんでした。ただ、日本が激動の時代に藤本敏夫さんが生まれたということは間違いありません。

同志社大学在学時に学生運動に参加

藤本敏夫さんは1963年に同志社大学に入学します。この頃はちょうど学生運動が始まった時期でもあり、藤本敏夫さんも大学2年の時に学生運動に参加しました。

翌年の1965年には京都府学連書記長に選出され、その後の羽田闘争にも参加します。1968年には反帝全学連の委員長に就任し、10月に行われた国際反戦デー防衛庁抗議行動にも参加しました。

学生運動中に公務執行妨害の罪で逮捕

1968年、国際反戦デー防衛庁抗議行動に参加していた藤本敏夫さんは、公務執行妨害・凶器準備集合罪などの容疑で逮捕されてしまいます。その後起訴され、裁判が続くことになりますが、1972年に実刑判決を受け、中野刑務所に収監されました。

藤本敏夫さんは1974年に栃木県黒羽刑務所から出所しますので、その収容期間は2年ほど続いたことになります。収監されたときには学生運動から離脱していましたので、服役後に学生運動に復帰するということはありませんでした。

服役後食と農をテーマとした活動を行う

藤本敏夫さんは服役後は食と農をテーマとした活動を行っていたようです。1976年には「大地を守る会」をオイシックスドット大地株式会社の代表取締役会長としても知られる藤田和芳さんと共に設立します。

この会の初代会長となった藤本敏夫さんは、農業の理想を追求し、実践するために有機農業の普及にも関わりました。

1981年に鴨川自然王国を設立

1981年には千葉県鴨川市嶺岡山中に移住し、農事組合法人自然生態農場「鴨川自然王国」を設立し、主宰するようになります。この「鴨川自然王国」は現在も、米・大豆などの作物の有機無農薬栽培などの営農実践や農業塾の運営を行っています。

1992年には 参議院選挙比例区に環境政党「希望」を結党し立候補しますが、落選してしまいます。1999年からは妻の加藤登紀子さんや娘たちとともに「「土に生きる」トーク&ライブ」で全国を回ったこともあったようです。

藤本敏夫さんの死因は何?

藤本敏夫さんは2002年に死去されますが、その死因は何だったのでしょうか?藤本敏夫さんはどのような死因で死去されたのでしょう?藤本敏夫さんを死に至らしめた死因について調べてみました。

藤本敏夫さんの死因は肝臓がん

藤本敏夫さんの死因ですが、肝臓がんだと公表されています。肝臓は沈黙の臓器ともいわれ、肝臓がんにかかっても手遅れになるまで気づかず、それが死因で亡くなる人が多いとも言われています。

藤本敏夫さんが肝臓がんが死因で亡くなられた時はまだ58歳という若さでした。しかも、さまざまな農に関する事業もまさにこれからという中での死だったようです。

藤本敏夫さんは最終的には肝臓がんから肺炎を併発して亡くなったと発表されています。肝臓がんにもさまざまな種類がありますが、藤本敏夫さんの死因となった肝臓がんが、具体的にどのような種類のものかということまでは発表されていませんでした。

肝臓がんが死因で亡くなった有名人としては、川島なお美さんや林家染丸さん、絵本作家のいわさきちひろさんやハナ肇さんなどがいるようです。

闘病中に恋人探しをしていた?

藤本敏夫さんは闘病中に恋人探しをしていたという情報もあるようです。しかし、この時には結婚していたはずです。藤本敏夫さんは本当に恋人探しをしていたのでしょうか?

調べてみたところ、この恋人探しというのは、医師のアドバイスでもあったようです。肝臓がんの治療に最も良いのは「恋人を探すこと」と医師は言ったと言います。ただ、藤本敏夫さんが本気で恋人を探していたのかどうかは分かりません。

妻の加藤登紀子さんは「恋をすることで肝臓がんの治療になるなら」と、夫の恋人探しをサポートしようとしたという話もあるようです。

肝臓がんもその進行具合によっては治療の手立てがなくなってしまうこともあります。そこに「恋をすること」が治療になると聞かされれば、真剣に考えてしまうのも無理はない話なのかもしれません。

彼女は大物文化人との噂

夫のためにと彼女探しを始めた加藤登紀子さんですが、実はすでに彼女がいたということを突き止めてしまいます。その時の加藤登紀子さんは相当にショックだったに違いありません。その彼女は大物の文化人という噂もあるようです。

ただ、藤本敏夫さんの彼女が具体的に誰なのかということについては、はっきりとしたことは分かりませんでした。

藤本敏夫さんと加藤登紀子さんは夫婦というよりは「同志」であるとご本人たち考えておられたようですので、入院中の夫に彼女がいたとしても、加藤登紀子さんはそれほど落胆もしなかったかもしれません。

恋人探しを手伝おうとした加藤登紀子さんが夫の彼女の存在を突き止めてしまったという話は、「梅沢富美男のズバッと聞きます」で加藤登紀子さん自身が告白されたことだったそうです。

藤本敏夫さんには浮気の噂も

藤本敏夫さんには浮気の噂もあったといいますが、本当に浮気をしていたのでしょうか?藤本敏夫さんの浮気についても調べてみました。

藤本敏夫さんの浮気の噂は、先ほど紹介した医師のアドバイスによる「恋人探し」に原因があるようです。結婚しているにも関わらず恋人探しをするというのは「浮気」だろうということから、浮気の噂が広まってしまったようです。

実際に加藤登紀子さんは夫の彼女を探そうとして、すでに彼女がいたことを知ってしまいますが、これが浮気かどうかという線引きは微妙かもしれません。

加藤登紀子さん自身も、夫の治療のために彼女を見つけようとしていたのですし、夫も浮気というよりは病気の治療のために彼女を作っていた可能性もあります。藤本敏夫さんの浮気については、解釈の仕方によってはなかったということもできそうです。

藤本敏夫さんと加藤登紀子さんは獄中結婚!

藤本敏夫さんの妻は歌手の加藤登紀子さんですが、二人はどのような馴れ初めで結婚したのでしょうか?加藤登紀子さんのプロフィールも交えながら、二人の出会いから結婚までを紹介します。

加藤登紀子さんのプロフィール

まずは加藤登紀子さんのプロフィールから見ていきましょう。加藤登紀子さんは1943年12月27日生まれで現在75歳になります。藤本敏夫さんよりはひとつ年上ということになるようです。

加藤登紀子さんの誕生も夫と同じ戦中で、満州国・ハルビン市に生まれたそうです。父は南満州鉄道勤務だったそうですが、戦後は京都に移り住んだようです。加藤登紀子さんは高学歴でも知られていて東京大学文学部西洋史学科を卒業しています。

加藤登紀子さんのデビューは東京大学に在学中の1966年のことで、第2回日本アマチュアシャンソンコンクール優勝し、「誰も誰も知らない」でレコードデビューします。そして、「赤い風船」で第8回日本レコード大賞の新人賞を受賞しました。

加藤登紀子さんといえば、抜群の歌唱力が有名ですが、1969年には「ひとり寝の子守唄」が第11回日本レコード大賞の歌唱賞を受賞します。

1971年には森繁久弥さんが作詞作曲をした名曲「知床旅情」で、加藤登紀子さんは2度目の日本レコード大賞の歌唱賞を受賞しました。

この頃にはすでに藤本敏夫さんと交際をされていたようです。二人の馴れ初めは、学生運動の集会で歌ってほしいと要請があったのを、加藤登紀子さんが断ったことだったのだとか。その時に藤本敏夫さんは加藤登紀子さんに注目したといいます。

藤本敏夫さんが服役中の1972年に結婚

藤本敏夫さんと加藤登紀子さんが結婚したのは、1972年のことでした。実はこの時、藤本敏夫さんは学生運動への参加によって実刑が確定し、刑務所に収監されていました。ですので、獄中結婚と言うことになります。

加藤登紀子さんは藤本敏夫さんが収監されるとき、結婚して欲しいと逆プロポーズしたそうです。しかし、待たせてしまうのも悪いからと藤本敏夫さんは断ったのだとか。

その後、加藤登紀子さんの妊娠が発覚したために、藤本敏夫さんも意思をかため、二人は獄中結婚という選択をしました。

加藤登紀子さんはこの時すでにデビューしていましたし、前年には日本レコード大賞の歌唱賞を受賞していましたので、この獄中結婚は話題になりました。ただ、当時の事務所のマネージャーが奔走したこともあり、加藤登紀子さんは芸能活動を続けることができました。

結婚に対して周囲からは猛反対される

事務所のマネージャーは理解をしてくれたものの、加藤登紀子さんの獄中結婚は家族や親戚からの猛反対を招いてしまったといいます。

当時は今よりももっと結婚に対して厳格な時代でもあったために、当然の反応だったのかもしれません。しかし加藤登紀子さんはそうした周囲の反対にも耳を貸さず、ご自分の意志を貫いて獄中結婚を選んだのでした。

加藤登紀子さんの母親だけは結婚を応援

周囲の無理解と猛反対の中で、加藤登紀子さんの母親だけは娘の決断を理解し、藤本敏夫さんとの結婚を応援してくれたといいます。

こうした理解のある母親があってこその加藤登紀子さんだったといえるのかもしれません。この後、娘を出産した後も、加藤登紀子さんの母親はその子育ての支援も含めて娘をサポートし続けました。

藤本敏夫さんの娘の現在

藤本敏夫さんと加藤登紀子さん夫妻には娘がいると言われています。現在、その娘たちはどうしているのでしょうか?夫婦の娘たちの現在についても調べてみました。

妻との間に3人の子供を授かる

藤本敏夫さんは妻の加藤登紀子さんとの間に、3人の子供をもうけたようです。子供はすべて女の子で、長女の出産は1972年、次女の出産は1975年、三女の出産は1980年のことでした。

加藤登紀子さんは当時、歌手やシンガーソングライターとして忙しい日々を送っていましたが、家族のサポートを受けながら娘たちを育て上げたといいます。

次女の藤本八重さんは歌手として活動

現在、次女の藤本八重さんは歌手Yaeとして活動しています。Yaeさんの芸能界デビューは、1995年に上演された音楽劇「コルチャック先生」で、この時は女優としてデビューしました。

1999年頃からYaeさんは歌手、シンガーソングライターとしての活動も始めます。この頃に話題になったYaeさんの曲が「別れの曲」で、CMソングとしても使用されました。

2001年にはYaeさんはアルバム「New Aeon」をリリースします。この年の11月にリリースした「風のみち」はテレビ朝日系の「素敵な宇宙船地球号」のエンディングテーマに採用され、注目を集めました。

2018年3月にはアクティビストチーム「MOTHER EARTH」の一環としてたちあげられた環境省「つなげよう、支えよう森里川海プロジェクト」のアンバサダーにも任命されたそうです。

歌手として加藤登紀子さんとも共演

Yaeさんはたびたびイベントなどで母である加藤登紀子さんと母娘共演もしています。さすがに母娘というだけあり、息がぴったりだと評判のようです。

現在のYaeさんですが、半農半歌手としても知られており、NHKの「産地発!たべもの一直線」にも出演されていたことがありました。

藤本敏夫さんの半生は波乱万丈だった

元学生運動の指導者であり、有機農法実践家でもある藤本敏夫さんについて紹介してきました。藤本敏夫さんの半生は、逮捕からの入獄や獄中結婚、選挙への出馬、肝臓がんとの闘病など、実に波乱万丈だったことが判明しました。

夫のことを「同志」と呼ぶ加藤登紀子さんを妻に持つ藤本敏夫さんですが、58歳という若さで泣くなられました。ただ、藤本敏夫さんが築いた農業の理想を追求する活動は、今後も妻や娘たちによって引き継がれていくに違いありません。

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この記事のライター
春日つぼね

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