2020年06月26日公開
2020年06月26日更新
深川通り魔殺人事件とは!犯人(川俣軍司)の生い立ちから現在!ドラマ化も調査
1981年6月17日白昼の商店街に悲鳴が響き渡りました。川俣軍司はこの時幼い子供を含む4人を刺殺し、2人に重傷を負わせました。これは“深川通り魔殺人事件”と言われ、後にドラマにもなった事件史に残る凶悪事件でした。今回は“深川通り魔殺人事件”を追ってみました。

【深川通り魔殺人事件】とは
1981年(昭和56年)6月17日東京都江東区森下2丁目の商店街付近で、犯人・川俣軍司は持っていた柳刃包丁で無差別に通行人を次々と襲いました。犠牲となったのは幼児を含む4人、そして2人は重傷を負います。また、川俣軍司は犯行に及んだ後、女性1人を人質にとって近くの中華料理店に立て籠もりました。
7時間後、女性は隙きを見て逃げ出し、同時に警察官が踏み込み川俣軍司は逮捕されました。パンツ姿で中華料理店から出てくる川俣軍司の姿は、テレビでも中継されたとのこと。日本を震撼させたこの事件は、後にドラマにもなりました。日本の事件史にも残る凶悪な”深川通り魔殺人事件”は、なぜ起こったのでしょうか?詳しく見てまいりましょう。
1981年に東京都江東区で起きた無差別殺人事件
深川通り魔殺人事件は、1981年6月17日午前中11時35分頃発生しました。現場となったのは、東京都江東区森下2丁目の買い物客で賑わう商店街付近の路上でした。
東京都江東区森下2丁目と言えば、スカイツリー近辺の下町の雰囲気が堪能でき、またグルメスポットとして現在は観光スポットとして人気エリアです。39年前に、ここで悲惨な事件が起こったと知らない人も多いでしょう。
犯人の名は「川俣軍司」
根本敬や村崎百郎は電波系と呼ばれるが、『電波』とは1981年に起きた深川通り魔殺人事件がルーツであり、犯人の川俣軍司が持つ純度の高い被害妄想と覚醒剤中毒者にみられる幻聴が相まった症状を『電波』と自らが表現したことに由来する。
— GURU PHANTOM (@gurukaito) January 20, 2020
ブリーフの持つ変態的イメージもこの事件が起源とされている。 pic.twitter.com/byuCPY7MSU
日本中に衝撃を与えた犯人の名前は“川俣軍司”といい、当時29歳の若い青年でした。茨城県鹿島郡波崎町太田出身で、過去に7回の逮捕歴があったそうです。事件の2ヶ月前に出所したばかりで、事件当日は仕事の面接の結果が不採用だったため腹を立てていたそうです。
犯人(川俣軍司)の生い立ち
全く関係のない人々を次々に滅多刺しにした川俣軍司。一体どんな人物なのでしょうか?ここからは犯人・川俣軍司の生い立ちを詳しく見てまいりましょう。
常陸利根川の貧しい家庭で育つ
川俣軍司は、1952年2月21日に西側に利根川と東側に太平洋に挟まれた茨城県鹿島郡波崎町太田という小さな町に生まれました。両親、兄、姉2人、弟、そして川俣軍司という家族だったそうですが、一番上の姉は幼少期に亡くなっています。川俣軍司が生まれた頃は、とても貧乏だったそうです。
父親の仕事はシジミ漁
おはようございます。
— 茨城町地域おこし協力隊 (@IbarakiOkoshi) April 6, 2020
涸沼の朝‼️です。
遠くにしじみ漁から帰る船、
見えますか?#涸沼 #茨城町 #しじみ #シジミ pic.twitter.com/KIKdXgkGoO
川俣軍司の父親は、元々は東京の下町の出身だったそうです。戦後に茨城県鹿島郡波崎町太田に移り住み、シジミ漁専門の漁師になりました。しかし、シジミ漁は夏場は禁漁期間になり、1年を通して漁に出ることが出来ません。
この地に昔から住んでいる人達の大半は畑を所有していて、漁に出られない夏場は農作物を栽培する半農半漁で生計を立てているそうです。川俣軍司の父親は移住者のため畑などはなく、シジミ漁一本で生計を立てなければならず、生活はかなりの貧困だったそうです。
重湯で育った幼少期
貧しい家庭で育った川俣軍司。食べ物も満足に買うことが出来ず、母親はまだ乳幼児だった川俣軍司を育てるための母乳が出ず、また粉ミルクを与える事も出来なかったと言います。そのため、川俣軍司は重湯で育てられたそうです。
父親の怒鳴り声が絶えない家庭環境
当時、川俣軍司は平屋の文化住宅風の借家に両親と3人で暮らしていたそうです。近所に住んでいた人によると、「いつも父親の怒鳴り声がしていた」という事でした。また、笑い声などは聞こえてくることはなかったそうです。川俣軍司は父親からDVを受けながら、貧しい家庭環境の中で成長していったと考えられます。
高校には進学せずに寿司職人修行
中学を卒業した川俣軍司は、高校には進学しませんでした。「手に職を付けたい」と言い、東京築地にある寿司店で寿司職人見習いとして住み込みで働き始めました。働き始めた当初は素直で、「軍ちゃん」とか「軍司」と呼ばれ周囲とも馴染めていたそうです。休日以外は休むこともなく、とても真面目に働いていたそうです。
しかし、就職して3年ほど経つと状況が変わります。同じ寿司店に、川俣軍司と同じ年代の少年院仮退院中の男が板前見習いとして住み込みで入ってきたのです。川俣軍司は、この男と折り合いが悪く半年後この寿司店を辞めてしまいました。
寿司職人辞職その後は事故
最初に務めた寿司店を辞めた後、川俣軍司は他の寿司店に再就職しますが客と揉め事を起こし解雇となりました。その後も寿司店を転々としますが、長く続くことはなかったようです。川俣軍司は一度波崎町の実家に戻り、その間に普通自動車運転免許を取得。「自分は客商売には向いていない」と思い、トラック運転手になろうと考えたようです。
実際に運転免許取得後に、銚子市内の運送会社に就職しています。しかし寿司職人同様に、トラック運転手としても長く続くことはありませんでした。川俣軍司は、道路交通法違反から始まり、接触事故や人身事故を起こし起訴までされていました。
恐喝や暴行事件で逮捕歴も
川俣軍司は、1971年頃から酒に酔って事件を起こすことが多くなったと言います。最初に逮捕されたのは川俣軍司が19歳の時でした。通行人を脅かし現金を奪ったとして、恐喝罪で逮捕されています。その後も、暴行傷害事件などを繰り返し深川通り魔殺人事件までに7回も逮捕歴があったそうです。
出所してからは生活が安定
1971年最初に恐喝罪で逮捕された時、川俣軍司には懲役2年・執行猶予3年の判決が下されていました。しかし、1972年に暴行傷害事件を起こした際に懲役10ヶ月の実刑判決を受け、このことで前の事件の執行猶予が取り消しとなります。従って川俣軍司は2年10ヶ月、川越少年刑務所に服役することになりました。
1975年に満期で出所した川俣軍司ですが、1976年には別の事件で懲役10ヶ月を言い渡され水戸少年刑務所に送られます。翌年に出所後は、父親のシジミ漁を継ぐことになり一生懸命に働いたそうです。多い時には月200万ほどの売上があったそうです。
両親への反抗がエスカレート
父親と一緒にシジミ漁に出始めた頃、川俣軍司は父親の言うことを素直に聞き入れ熱心に仕事をしていたそうです。しかし、仕事の要領を覚えてくると、父親に注意されると不機嫌となり「くそじじぃ、海に落とすぞ」などと凄むようになっていったそうです。
また家に帰ると母親にも当たり散らし、母親が作ったお料理を「こんなもの食えるか」と言ってひっくり返す事もあったそうです。危険を感じた両親は、銚子に住む川俣軍司の兄の家に避難したそうです。
暴力団との関係と覚醒剤
父親が家を出て行ってからは川俣軍司は弟にシジミ漁を手伝わせ、お金も安定して稼いでいました。と同時に金遣いも荒くなり、派手に飲み歩いていたようです。その頃から波崎や銚子の暴力団と関わり合うようになり、覚醒剤にも手を染めていったそうです。
母親の葬儀にて兄と揉める
1980年8月17日、川俣軍司の母親は子宮ガンのため亡くなりました。母親の葬儀は自宅で行われていますが、葬儀中川俣軍司は大声で喚いたり意味不明の事を叫んだりし、静止しようとした兄弟と揉めたそうです。この時川俣軍司は酒は飲んでおらず、奇妙な言動は「覚醒剤の幻覚・妄想症状ではないか?」と言われたそうです。
ホステス通いと包丁切りかかりで実刑判決
シジミ漁で羽振りが良かった頃、川俣軍司は毎晩のようにお気に入りのホステスがいるクラブに通ったそうです。そのホステス絡みでも、川俣軍司は事件を起こしていました。
当時入れ込んだホステスは、店では独身となっていたそうですが実際には夫がいたようです。その事を知った川俣軍司は怒り狂い、彼女が利用しているクラブの送迎バスを待ち伏せし、乗り込もうとするお気に入りのホステスに包丁で切りつけ怪我をさせ逮捕されています。懲役1年の実刑判決が下され、府中刑務所に服役しました。
再び出所後も覚醒剤を常用し東京で仕事
出所した川俣軍司は、銚子や東京で仕事を探し、寿司店や水産加工会社などに就職しています。しかしどこも長くは続かず転々と仕事を変えていました。
自ら辞める事もあれば、乱暴な言葉、薄気味悪さなどの理由で解雇される事も多かったようです。また、この頃には再び覚醒剤を常用していたようで、奇妙な言動や症状から覚醒剤使用が発覚し解雇された事もあったようです。
深川通り魔殺人事件の概要をおさらい
深川通り魔殺人事件を外に。 pic.twitter.com/JZKBCTXF1q
— 徳川龍之介 19時までの短縮営業中 (@binbinstory) May 5, 2014
川俣軍司がどのような人物か分かったところで、深川通り魔殺人事件の概要を見てまいりましょう。被害者は誰だったのか?犯行現場は?犯行動機は?深川通り魔殺人事件は知れば知るほど、恐怖と怒りが押し寄せる事件でした。
被害者は主婦や子供
1981年6月17日11時35分、白昼買い物客で賑わう商店街で起こった深川通り魔殺人事件。現場は、東京都江東区森下町2丁目付近でした。この事件の被害者は主婦や子供で、乳幼児を含む4人が死亡し2人が重傷を負っています。まず最初の被害者となったのが、1歳のベビーカーに乗った乳幼児でした。
川俣軍司の目線の先に、ベビーカーを押して歩いてくる親子連れが現れます。川俣軍司は正面から走りながらベビーカーに乗っていた乳幼児の腹部を、持っていた刃渡り22cmの柳刃包丁で2度刺したそうです。被害者の母親は、何が起こったのか把握出来ないまま悲鳴を上げ逃げ出すと、川俣軍司は追いかけ母親の背中を2度突き刺しました。
1981年6月17日、
— オダブツのジョー (@odanii0414) June 16, 2019
深川通り魔殺人事件発生。
子供2人を含む4人が刺殺され、
さらに主婦を人質に、
中華料理店に立てこもり、
7時間後に警官隊の突入により、
身柄確保。逮捕時のこの画像の
異様さは今なお強烈に
印象に残ってるな。
ちなみに犯人は、
覚醒剤常習者だった。 pic.twitter.com/ozkGrhCfeC
乳幼児、母親と刺した後、現場には3番目の被害者となる女の子が呆然と立ち尽くしていました。川俣軍司はその女の子にも容赦なく襲いかかり、胸を4度滅多刺しにしたそうです。川俣軍司の犯行は止まることなく、再び最初の被害者の乳幼児の所に戻り、致命傷となる胸を刺したと言います。
親子を殺害した後もなお、川俣軍司は犯行を続けました。次の被害者は33歳の女性でした。この女性はたまたま現場を通りかかり、悲惨な現場を唖然と見ていたところ川俣軍司に腹部を刺され殺害されました。更に被害者は増え、バス停にいた71歳の女性、化粧品店から出てきた39歳の女性と切りつけ重傷を負わせています。
被害者の1人は人質に
最初の被害者を刺してから5分足らずで、4人を殺害し2人を負傷させた川俣軍司。11時40分には、7番目の被害者となる通りすがりの当時33歳の女性の喉元に柳刃包丁を突きつけ、近くの中華料理店に立て籠もったそうです。
人質となった女性は、肩、首、背中などに37箇所も傷つけられていたそうです。この時、川俣軍司の持っていた柳刃包丁は、何人もの人を切る付けたことで5ミリほど欠けていたそうです。このことに気づいた川俣軍司は、これ以上人を刺すことは出来ないと思い人質を取って立て籠もったとも言われています。
立てこもった場所は中華料理店「萬来」
東京都江東区で通り魔事件。4人切りつけられ女性1人死亡。→1981年の 深川通り魔殺人事件思い出した。 #報道ステーション pic.twitter.com/fdrSoY7DLA
— チャオ フェラ チンコクワエッティ (@megahell_2) December 7, 2017
深川通り魔殺人事件で、犯人川俣軍司が人質を取って立て籠もった現場は、中華料理店「萬来」と言うお店でした。現在は中華料理店「萬来」はなく、ウィクリーマンションが建っているそうです。
犯人の白いブリーフ姿にも注目が
深川通り魔殺人事件は、女性を人質に立て籠もってから7時間後に事態が動きました。川俣軍司の隙きを見て女性が逃げ出し、それと同時に待機していた警察官が踏み込んだのです。川俣軍司は、持っていた柳刃包丁を振り回し暴れたそうです。
「死んだ人間は、これも運命だ。俺は侍だから、殺された町人も幸せだろう」
— ◆マジキチ犯罪者の名言◆ (@mazikiti_hanzai) May 27, 2020
【深川通り魔殺人事件(1981)】、川俣軍司 pic.twitter.com/l4QpKc2DbP
こうして逮捕され中華料理店の外に出てきた川俣軍司は、テレビでも中継されました。その時、ブリーフ姿だったこともあり鮮明に記憶している人も多いようです。ちなみになぜ川俣軍司はブリーフ姿だったのでしょうか?
調べてみると意外な事が明らかになりました。実は、警察官が踏み込んだ時点では、覚醒剤で精神錯乱状態だった川俣軍司は下半身は裸状態だったそうです。逮捕後テレビ局や多くの野次馬が集まる中、そのままでは外に出すことが出来ず急遽警察官がブリーフを履かせたそうです。
犯人(川俣軍司)の犯行動機とは
歴史上凶悪犯罪として残る深川通り魔殺人事件ですが、犯人・川俣軍司の犯行動機は何だったのでしょうか?逮捕後の取り調べで川俣軍司は、「寿司店の面接の結果が不採用だったため腹が立った」、「子供を持つ人が羨ましく、手当り次第にうっぷんを晴らした」、「俺はサムライ」などと語ったそうです。
深川通り魔殺人事件の犯人(川俣軍司)の現在
深川通り魔殺人事件から39年経った現在、川俣軍司はどうなっているのでしょうか?川俣軍司の現在を調べてみました。
犯人(川俣軍司)の裁判の判決は無期懲役
1981年6月17日、深川通り魔殺人事件。
— lectorjp (@lectorjp) April 14, 2015
死者4人、負傷者2人。
本来は死刑だが犯人は覚醒剤をやっていて犯行時、心神耗弱状態として無期懲役、現在も生きている。
よく解らない法律。 pic.twitter.com/RcmMpRD9Ni
4人を殺害し、2人の負傷者を出した深川通り魔殺人事件。犯人・川俣軍司には、1982年(昭和57年)12月23日に無期懲役の判決が下り、翌年無期懲役が確定しています。当時検察は、死刑を求刑していましたが、「犯行当時、犯人は心身耗弱状態にあった」とされ死刑を免れています。
しかし、川俣軍司はこれでも判決に不服とし、控訴を考えていたようです。しかし、担当の弁護士に諭され、控訴を断念しています。
現在も服役中の川俣軍司
川俣軍司は現在68歳で、今もなお服役中です。どこの刑務所に服役しているのか調べてみました。川俣軍司は、現在宮城刑務所に服役しているようです。宮城刑務所は、長期再犯者や身体障害者などの処遇困難者を収容する刑務所だそうです。
犯人(川俣軍司)の家族の現在も調査
日本中を恐怖に落とした深川通り魔殺人事件。犯人の川俣軍司は現在も服役中ですが、川俣軍司の家族は現在どのように過ごしているのでしょか?調査してみましたが、川俣軍司の家族については何一つ情報はありませんでした。
被害者の祖父が川俣軍司の祖父を殺害
深川通り魔殺人事件は、犯人・川俣軍司の逮捕によって全てが解決されていますが、実は不可解な出来事がこの深川通り魔殺人事件の裏にはあったのです。
それは、深川通り魔殺人事件の数年前に、最初に子供と一緒に襲われた母親の祖父が川俣軍司の祖父を殺害していたのです。またその現場となったのが、この深川通り魔殺人事件から小名木川と言う川を渡った”森下”という場所だそうです。
深川通り魔殺人事件の現場となったのも”森下”。何か因縁を感じずにはいられませんが、川俣軍司は祖父の事件については一切知らなかったと言うことです。
事件現場の現在は?
深川通り魔殺人事件の現場となった、東京都江東区森下2丁目付近。現在は、都市開発が進み事件当時の町並みは残っていないようです。ただ、事件現場となった北側にある長慶寺には、深川通り魔殺人事件で犠牲者となった4人の供養塔が建てられているそうです。
深川通り魔殺人事件がドラマ化
深川通り魔殺人事件はドラマ化にもなり、世間がいかに注目していた事件だったのかを伺うことができます。一体どんなドラマだったのでしょうか?調べてみました。
1983年にドラマ『深川通り魔殺人事件』放送
ドラマ化された『深川通り魔殺人事件』は、1983年7月25日テレビ朝日の”月曜ワイド劇場”枠で2時間ドラマとして放送されました。ドラマでは、川俣軍司の中学生時代から深川通り魔殺人事件までが再現され放送されたようです。視聴率はなんと約26%もあったほど、世間では関心の高いドラマだったと言えるでしょう。
ドラマ『深川通り魔殺人事件』で犯人役は?
11月25日は俳優の大地康雄さんの誕生日。「マルサの女」の伊集院や火サスの「鬼貫八郎シリーズ」などが好きです。杉下右京に先んじて、普段は抑えた口調でここぞという時に怒鳴りつける演技で良い味出してます。写真は彼の出世作「深川通り魔殺人事件」で実在の通り魔殺人犯を演じた時の雄姿。 pic.twitter.com/NuNm3MBd7v
— ncc1701 (@ncc170116) November 24, 2019
ドラマ『深川通り魔殺人事件』の犯人・川俣軍司役には俳優の太地康夫さんが抜擢されました。他にも、風祭ゆきさん、小林稔侍さん、松山英太郎さんなどが出演していたそうです。
犯人役は「大地康雄」
犯人の川俣軍司役を演じた太地康夫さんとはどんな俳優さんなのでしょうか?大地康雄さんは、1951年11月25日生まれの熊本県熊本市出身の俳優さんです。1979年に、『衝動殺人 息子よ』で映画デビューを果たしています。
デビュー4年後で主演したドラマ『深川通り魔殺人事件』では、リアルな演技が話題となり注目を浴びることに。その後、『マルサの女』、『ビー・バップ・ハイスクール』、『ぼくらの七日間戦争』、NHK大河ドラマ『獅子の時代』などに出演しています。
川俣軍司本人が出演と思われるほどの演技
ドラマ『深川通り魔殺人事件』が放送された後、大地康雄さんのあまりにも迫真の演技に「川俣軍司本人ではないか?」と思われたほどでした。この後からたまにくる仕事は、悪役の仕事ばかりだったそうです。
太地康夫さんは当時、川俣軍司とほぼ同じ年齢でしかも薄毛だったそうです。しかもデビュー作も犯人役だったため、監督からオファーがきたそうです。
深川通り魔殺人事件の犯人は現在も無期懲役で服役中
1981年6月17日、白昼の商店街で次々に子供や主婦を切りつけるという凶行を犯した川俣軍司。この時、犠牲となったのは1歳の乳幼児を含む4人でした。また2人の女性は重傷を負っています。この事件は、深川通り魔殺人事件として昭和でも残虐な事件として後々ドラマ化もされています。
犯人の川俣軍司は、覚醒剤の常用者で事件当時”心身耗弱状態”にあったとされ、死刑判決は免れています。無期懲役となった川俣軍司は、現在も宮城刑務所に服役中です。覚醒剤がはびこり、ストレスの溜まる現代社会では、第2の川俣軍司がいつ現れてもおかしくはないでしょう。