2020年07月02日公開
2020年07月02日更新
【八甲田雪中行軍遭難事件】概要やルートなどの真相!生存者は?心霊写真や映画なども調査
青森県にある八甲田山は、八甲田雪中行軍遭難事件の事件現場として今なお語り継がれているそうです。そもそも、八甲田雪中行軍遭難事件とはどのような事件だったのでしょうか?八甲田雪中行軍遭難事件の概要や、現在噂されている心霊現象についてご紹介していきます。

目次
八甲田雪中行軍遭難事件の概要
日本百名山の1つで、青森県の南部に存在する八甲田山。普段は観光客や温泉を楽しむ客で賑わいを見せている知る人ぞ知る名山の1つですが、実は1902年に八甲田雪中行軍遭難事件という恐ろしい遭難事件が起きた現場なのだそうです。まずは、八甲田雪中行軍遭難事件の概要について詳しく見て行きましょう。
1902年に八甲田山で起きた遭難事件
八甲田雪中行軍遭難事件は、1902年1月に青森県南部にある八甲田山にて発生した遭難事件です。今からおよそ100年ほど前という事ですが、当時の日本は戦争を繰り返しており、1894年に日清戦争が開戦され日本の勝利という形で終戦したばかりだったそうです。
おはようございます。今日は1月23日、1902年に八甲田雪中行軍遭難事件が起こった日です。
— 麻酔科👓まるか🏳️🌈 (@Masuika_Maruka) January 22, 2020
冬山の軍事訓練で参加者210名中199名が死亡。
ほぼ同一日程で逆ルートを行軍した別の連隊は行軍成功しています。
この生死を分けた違いは、先達の教えを受けて準備をしていたかどうか、でした。 pic.twitter.com/xPbMbbeB1y
八甲田雪中行軍遭難事件という名前を見ても分かる通り、八甲田雪中行軍遭難事件にて遭難したのは、当時戦争に繰り出されていた日本軍の兵士です。遭難者の数は210人、このうち199人は死亡するという悲惨な遭難事件として今なお語り継がれています。
ロシアとの戦いに向けての雪中行軍
八甲田雪中行軍遭難事件で多くの人が疑問に思うのが、なぜ八甲田山に日本軍がいたのかという事です。実は八甲田雪中行軍遭難事件が発生した1902年、日本はロシアとの戦争に向けて八甲田山にて訓練を行っていたのだそうです。
というのも、日本は1894年に日清戦争で勝利していますが、この際寒冷地での戦闘で苦戦した経験があったとのこと。その為、ロシアではこの教訓を活かそうと雪深い事で知られていた八甲田山にて雪中行軍を行う事となったのです。
参加部隊①青森歩兵第5連隊
2019.6.9
— 雁淵ひかり (@Miyafuji_501) June 9, 2019
陸上自衛隊 青森駐屯地 第9師団創立記念行事
駐屯地内見学(4)
青森歩兵第五連隊の門、防衛館。
八甲田雪中行軍遭難事件、北大路欣也の部隊。#陸上自衛隊#自衛隊#青森県 pic.twitter.com/OxSCg4z3hU
八甲田雪中行軍遭難事件の被害者となった雪中行軍参加部隊についても見て行きましょう。まずは青森歩兵第5連隊です。青森歩兵第5部隊は、ロシア戦にて物資の共有が列車で行えなくなった場合を想定した訓練が行われており、人力ソリにて物資を供給する訓練を行っていたそうです。
参加部隊②弘前歩兵第31連隊
前から公言していますが、「八甲田雪中行軍遭難事件」のマニアなんです。明治時代の陸軍の不祥事に過ぎないんだが、なぜマニアなんだろ。資料館は立派ですが、肝心の歴史資料は陸上自衛隊が所有しているらしく見られない。ここではパネルとジオラマがメインで残念。 pic.twitter.com/XYphmEqCe0
— アキラ師 (@playboyakira) March 9, 2020
八甲田雪中行軍遭難事件の被害に遭った部隊は1つではなかったそうです。弘前歩兵第31舞台も八甲田雪中行軍遭難事件の被害に遭っており、事件当日は雪中行軍に関する訓練の全般の最終段階を行っていたのだそうです。ちなみに、両部隊はお互いの訓練予定が重なっている事は知らず偶然共に八甲田雪中行軍遭難事件の被害に遭っています。
八甲田雪中行軍遭難事件のルートなどの真相
ここからは八甲田雪中行軍遭難事件のルートなど、さらに八甲田雪中行軍遭難事件の詳細に迫って行きます。違う訓練を行っていた部隊は、どのようなルートで重複し遭難事件の被害に遭ったのでしょうか?それぞれの八甲田雪中行軍遭難事件当日のルートや、遭難事件に遭遇してしまった理由について詳しく見て行きましょう。
2つの参加部隊のルートや日程は別
行軍に参加した部隊は2つある事は先ほどご紹介しましたが、2つの参加部隊のルートや日程は別でかなり内容に違いがありました。まず青森歩兵第5連隊ですが、出発日は1902年1月23日の事だったそうです。210人もの大編成にて支援物資を想定したかなりの大荷物をソリに乗せ、現在の青森県道40号青森田代十和田線ルートを通っています。
1902年、明治35年1月25日
— J.WH (@JPNHistoria) January 25, 2020
日本観測史上最低気温
北海道石狩国上川郡旭川町(現・旭川市)で、気温-41.0°Cを記録。日本の気象官署・アメダスにおける気温の最低記録となった。
また、同23日から27日にかけて青森県で八甲田雪中行軍遭難事件が発生し、行軍参加210名中199名が凍死している。 pic.twitter.com/A3ra2D4Jhj
そして弘前歩兵第31連隊は1902年1月20日から2月1日までの長期間かけての雪中行軍を行ています。こちらは少数精鋭の37名と記者1名の計38人で出発をしています。また、事前に沿線の村落や町役場に食糧や寝具、案内人の調達を申し出ており、寒冷地での長期間の行軍に万全の備え弘前から田代を通る224㎞ものルートを通っています。
遭難したのは青森歩兵第5連隊
おはようございます
— hiro 🌲青い森の住人🌲 (@hiro_i_1204) January 23, 2019
天気🌥️気温-4℃最高気温0℃
ダウ↑ナス↑先物↓㌦円109後半
旧陸軍「八甲田雪中行軍遭難事件」の教訓を忘れまいと、八甲田山系で陸自が雪中行進訓練‥‥お疲れさまです☃️🚶
今日は仕事休み💃皆さま、本日もよろしくお願いします🙇♂️ pic.twitter.com/PmAVgkdwXz
八甲田雪中行軍遭難事件の当日、八甲田山には2つの部隊が偶然ルートが重なったという事になります。しかし、八甲田雪中行軍遭難事件で遭難したのは青森歩兵第5連隊のみで、少数精鋭で挑んでいた弘前歩兵第31連隊は1名が一時遭難しているもののその後帰還しており、37名は遭難する事が無かったのだそうです。
神成文吉が指揮をした事でも有名
遭難した青森歩兵第5連隊を指揮していたのは、神成文吉という事が有名です。神成文吉は八甲田雪中行軍遭難事件の重要人物として知られており、遭難事件の被害に遭った理由にも大きく関係していたとされています。また、神成文吉は後にご紹介する八甲田雪中行軍遭難事件を題材にした映画でも重要人物として描かれています。
神成文吉とは
八甲田山の雪中行軍といえば、90年代終焉の頃に、めちゃくちゃ詳しいサイトがあったんだけど、そこで初めて見た神成文吉大尉の端正でどこかあどけないけれど芯のしっかりとしたお顔に予想外で驚いた思い出。
— 永月弥生 (@nagathuki) February 8, 2019
あのサイト、下手な研究書よりめちゃくちゃ詳しかったんだよね…ネット草創期のあるある… pic.twitter.com/sibGv26HGv
ここで神成文吉についてもう少しご紹介しておきましょう。神成文吉は秋田県出身で、八甲田雪中行軍遭難事件の際には陸軍主任中隊長として同行しています。八甲田雪中行軍遭難事件にて死亡しており、神成文吉は満32歳という若さでこの世を去ることとなります。
八甲田雪中行軍遭難事件が起きた理由
ここで八甲田雪中行軍遭難事件が起きた理由について詳しく見て行きましょう。もちろん山はいつ人に猛威を振るうかは分からず、遭難事件はいつどのように起こるかなど誰にも知る事は出来ません。しかし、八甲田雪中行軍遭難事件についてはいくつか人為的な理由があったとされています。
気象条件説
まずは人為的ではない遭難理由からご紹介しておきましょう。八甲田雪中行軍遭難事件当時の詳しい記録は残っていませんが、恐らく事件発生当時の八甲田山の気温は-20℃を下回っていたとされています。加えて気象状況もかなり悪く、八甲田雪中行軍遭難事件前後はかなりの吹雪だったとされています。
この事を考えると、訓練といえどとても人が山に赴いてはいけない気象状況だったという事が分かります。気温は-20℃を下回っていたと推測されていますが、吹雪だったとすれば体感温度はかなり低かった事でしょう。この事から、気象条件が悪かった事が遭難事件の理由とされているのです。
八甲田山に関する情報不足
青森歩兵第5連隊だけが遭難した理由としては、八甲田山に関する情報が不足していたという事も挙げられます。先ほど軽く触れていますが、弘前歩兵第31連隊については、ルート上の村落や町役場に食糧や寝具、さらにはルート上の知識に長けた案内人などの調達を依頼するなど、八甲田山へ挑むにあたり入念な準備を行っていました。
一方で、遭難に遭った青森歩兵第5連隊については短期で訓練を終えるという事からあまり八甲田山へ挑むには不向きな状態で雪中行軍を行っています。
凍傷などの対策も取らず、案内人の同行すらも断っていた事が後に明らかになっています。この事から、八甲田山の知識を持たずして雪中行軍を行っていた事も遭難してしまった理由といえるでしょう。
指揮官は神成文吉だけではなかった?
八甲田雪中行軍遭難事件にて遭難してしまった青森歩兵第5連隊の指揮官は神成文吉だったとご紹介していますが、実は指揮官は神成文吉だけではなかったようです。青森歩兵第5連隊には、神成文吉だけでなく一部長期伍長が指揮官として選抜をされていたそうです。指揮官が複数いたとなると、指揮の乱れもあったのかも知れません。
青森歩兵第5連隊が遭難した理由は指揮の甘さ?
ここで八甲田雪中行軍遭難事件にて青森歩兵第5連隊だけが遭難してしまった理由について考察してみました。青森歩兵第5連隊が遭難した理由は、神成文吉の指揮の甘さが影響していると考えられます。
この理由は、前述した通りルート上の知識を持たずに行軍を行っていたからです。また、極寒の八甲田山に挑むには軽装であったという事も分かっています。
さらに、神成文吉などの指揮の内容によると、青森歩兵第5連隊の隊員は十分な休息・休養をとれていなかったとされています。これは指揮官がしっかりと指揮して休養をとらせなければいけない事になりますので、指揮の甘さも遭難した理由といえるでしょう。
八甲田雪中行軍遭難事件の教訓は現在の自衛隊にも影響
八甲田雪中行軍遭難事件の教訓は、現在の自衛隊にも影響を与えているようです。2012年、八甲田雪中行軍遭難事件の報告書や手記、論文、手紙など計241点が陸上自衛隊幹部候補生学校に寄贈されています。雪中行軍で今後遭難事件が起きないよう、この教訓を活かして欲しいという狙いがあるのかも知れません。
八甲田雪中行軍遭難事件の生存者は?
ここからは八甲田雪中行軍遭難事件の生存者について詳しくご紹介していきます。雪中行軍中に日本軍の青森歩兵第5連隊が遭難してしまったという八甲田雪中行軍遭難事件。生存者は何名いたのでしょうか?また、発見当時の状況についても気になるところです。八甲田雪中行軍遭難事件の生存者について詳しく見て行きましょう。
参加者210名で生存者は11名
八甲田雪中行軍遭難事件で遭難した青森歩兵第5連隊は、210名という大編成であったそうです。この210名が八甲田雪中行軍遭難事件の遭難者となってしまった訳ですが、生存者はなんと11名しかおらず、実に199人もの命が奪われていた事になります。
ちなみに、ルートが一緒であった弘前歩兵第31連隊については38名が参加しており、1名の帰還者を除いて全員が遭難を免れています。1名も無事帰還していたという事なので、弘前歩兵第31連隊には遭難者は実質いなかったと表現してもいいかも知れません。
生存者は凍傷で手足切断?
生存者は11名いたという事ですが、生存者は無傷であったという訳ではないそうです。生存者は生還後に凍傷が原因で手足を切断しなければならないほどの重傷を負っており、一部は両下肢と手指部のみの切断で済んだものの、ほとんどの生還者が四肢切断となってしまったのだそうです。
凍傷とは
ここで凍傷について簡単にご紹介しておきましょう。凍傷は低温が原因で皮膚や皮下組織に障害を生じてしまう傷害です。火傷と同様で、酷いものでは死んでしまう事もあります。八甲田雪中行軍遭難事件当時、八甲田山の気温は-20℃を下回っていたとされているので、凍傷していてもおかしくはありません。
また、八甲田雪中行軍遭難事件を記した書記によると亡くなった隊員の遺体の中には、凍ってしまって強い力を入れて遺体を回収しようとすると関節からバラバラになってしまったものもあったとされています。この事を踏まえると、生還者の凍傷がいかに重傷だったのかがうかがえます。
生存者の中の6名は救出後に死亡
11名いた生存者でしたが、救出後に6名が死亡しています。共に治療を受けてはいたものの、生還する事は叶わなかったのだそうです。生還者も四肢を失うなど大きな代償を支払って命を得ていたので、亡くなった6名はさらにひどい状態だったのではないかと推測されます。
生存者の事件当時の証言の謎とは
八甲田雪中行軍遭難事件について、生存者の証言に食い違いがあったという情報が残っています。この事から、軍部の圧力や情報操作が行われたのではないかと噂されているようです。また、生存者の1人である少佐がその後謎の死を遂げている事から、軍や国の圧力があったのではないかと今なお囁かれています。
八甲田雪中行軍遭難事件で心霊写真や映画なども話題に
ここからは八甲田雪中行軍遭難事件のその後について詳しくご紹介していきます。歴史に名を残すような事件のその後には、心霊写真などの心霊現象の噂がよく立ちます。八甲田雪中行軍遭難事件も心霊写真などの心霊現象が現れると噂されているのでしょうか?八甲田雪中行軍遭難事件を題材にした映画についてもご紹介していきます。
八甲田雪中行軍遭難事件で心霊現象の噂も
八甲田雪中行軍遭難事件のその後、八甲田山では心霊現象が起こると噂されているようです。八甲田雪中行軍遭難事件の少し後、八甲田山では中隊規模の一軍が現れたとされています。実際に足音も聞こえたそうで、八甲田雪中行軍遭難事件で遭難し亡くなった青森歩兵第5連隊が心霊現象として現れたのではないかとされているようです。
消防署への通報は心霊現象?
また、青森市駒込の無人の別荘から消防署へ通報が入ったという情報も存在しています。これが八甲田雪中行軍遭難事件の心霊現象かは定かではありませんが、事件を知る地元住民の間では「亡くなった青森歩兵第5連隊が見つけてほしくて電話した」と語られているようです。
八甲田山での心霊写真の噂とは
八甲田山では現在も心霊写真が撮影出来ると噂されています。実は八甲田雪中行軍遭難事件の生存者である後藤房之助伍長の銅像が建てられているそうですが、その付近で写真を撮影すると写真に霊が写り込むのだそう。真偽は定かではありませんが、心霊写真の噂が絶えないところを見ると写真に霊が写るという心霊写真の噂は事実なのかも知れません。
映画『八甲田山』も話題に
今なお心霊写真の噂や心霊現象が起こるなど、人々の記憶に残り続けている八甲田雪中行軍遭難事件。そんな八甲田雪中行軍遭難事件を題材にした映画「八甲田山」も話題を集めているようです。映画「八甲田山」は1977年に公開されており、新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」を原作として作成されています。
高倉健や北大路欣也など昭和を代表する俳優陣キャスト
映画「八甲田山」は、昭和を代表する豪華な俳優陣が出演した事でも話題を集めていたようです。主人公である徳島大尉を高倉健が務めている他、前田吟、北大路欣也、大滝秀治などの面々が顔を連ねています。
映画『八甲田山』のあらすじ
映画「八甲田山」のあらすじは、ほぼ八甲田雪中行軍遭難事件の概要そのままです。事件を忠実に再現しながらも、人と人との繋がり、組織との関係などの極限状態での人間性も描かれています。
映画『八甲田山』の評判
映画「八甲田山」の評判はかなり良かったようです。その証拠に、映画「八甲田山」は配給収入25億900万円で、1977年の日本映画第1位を記録しています。豪華なキャストという事も関係しているかも知れませんが、八甲田雪中行軍遭難事件の内容が多くの人の関心をさらっていたようです。
伊藤薫の著書『八甲田山 消された真実』にも注目が
八甲田雪中行軍遭難事件を題材にした作品は映画だけではありません。2018年に発売された伊藤薫の著書「八甲田山 消された真実」にも現在注目が集まっています。同書は、八甲田雪中行軍遭難事件の生存者・小原中三郎元伍長が語った八甲田雪中行軍遭難事件の真相について記されています。
八甲田雪中行軍遭難事件は恐ろしい遭難事件
1902年に発生した八甲田雪中行軍遭難事件について詳しくご紹介してきました。八甲田雪中行軍遭難事件は、八甲田山をルートに雪中行軍をしていた青森歩兵第5連隊が遭難した事件で、210名中199名が亡くなる大事件だったそうです。冬の山の恐ろしさを知らしめる事件だったといえます。