【伝説の喧嘩師】花形敬とは!ステゴロ最強の男と刺殺事件とは

伝説の喧嘩師として知られる花形敬。ステゴロで無敵の強さを誇る伝説の男で、人気漫画「グラップラー刃牙」の花山薫のモデルに成った人物でもあります。今回はそんな伝説の喧嘩師「花形敬」についてまとめました。安藤組で最も恐れられた男が命を落とした事件とは?

【伝説の喧嘩師】花形敬とは!ステゴロ最強の男と刺殺事件とはのイメージ

目次

  1. 1花形敬とは
  2. 2花形敬はステゴロ最強の男?
  3. 3花形敬刺殺事件とは
  4. 4花形敬がモデルの作品
  5. 5花形敬の生い立ちや家族
  6. 6花形敬の交友関係
  7. 7花形敬は戦後史に残る伝説の喧嘩師だった

花形敬とは

それでは早速花形敬についてご紹介して参りたいと思いますが、先ずはその前に花形敬の事を御存知無い方の為に、花形敬という人物について簡単におさらいをしておきたいと思います。果たして花形敬という人物は一体どの様な人物なのでしょうか?

花形敬のプロフィール

・愛称:不明
・本名:花形敬
・生年月日:1930年(以下不明)
・没年齢:33歳
・出身地:東京都
・血液型:不明
・身長:後述
・体重:後述
・活動内容:暴力団組員
・所属組織:安藤組
・事務所:渋谷区
・家族構成:後述

花形敬は伝説の喧嘩師

花形敬を語る上で真っ先に挙がるであろう「伝説の喧嘩師」というワード。まさに花形敬を表すのにこれ以上無い言葉であり、花形敬を伝説たらしめるのはこの喧嘩の強さに有ります。「花形敬」と「伝説の喧嘩師」はワンセットとして語られるモノなのです。

とにかく花形敬は無敵の強さを誇ったと言われています。流石に現在ではもう花形敬のステゴロを実際に見た事があるという人は殆どいないでしょうが、数少ない花形敬のステゴロを知る方が語るところによると、その強さはまさに「鬼がかっている」という事の様です。

ステゴロが強いと言っても、それがどれだけの強さなのか中々想像が付かないところですが、花形敬の場合例え相手が何人居たとしても絶対に負ける事は無かったそうです。言ってみれば花形敬はステゴロのプロであり、アマチュア相手なら例え100戦しても負ける事はきっと無かったでしょう。

勿論ステゴロの相手が弱い相手ばかりだったら、それは確かに勝ち続ける事も容易でしょう。しかし花形敬は当時の渋谷のどさぐれ共を相手にバッタバッタと張り倒して来た訳ですから、喧嘩相手もそれなりに骨のある相手ばかりだったのでは無いでしょうか?やはり花形敬の「伝説の喧嘩師」という異名は伊達ではありませんね!

花形敬は安藤組の大幹部

花形敬が喧嘩が強かったのは分かりましたが、花形敬とは一体何を生業にしていた人物なのか?をご存知無い方もいるでしょう。そもそも花形敬とはどういう人物かと言うと、戦後の渋谷を拠点に活動を行っていた「株式会社東興業」の社員だったのです。この株式会社東興業は東京都渋谷区宇田川町に事務所を構え、昭和27年(1952年)7月に誕生しました。

この株式会社東興業にはマスコミが付けた俗称があります。その俗称が「安藤組」で、社長である安藤昇が率いる組織という事でこの名称が付けられました。つまりこの株式会社東興業とはいわゆる当時跋扈していた愚連隊だったのです。

花形敬はこの安藤組の大幹部で、渋谷では知らぬものはいない存在だったのです。因みに組長の安藤昇は後に俳優、小説家、歌手、プロデューサーとして活躍し、数多くの作品を残した事で知られています。安藤組は不動産売買、興行、警備、水商売の用心棒、賭博などを生業とする組織で、内容的には当時の暴力団とほぼ変わりのない組織でした。

花形敬が所属していたこの安藤組自体も今や伝説として語られる組織で、数多くの逸話を残しています。愚連隊全盛期の戦後日本において最も有名に成った組織と言っても良いでしょう。花形敬や安藤昇以外にもその名を知られるメンツがこの安藤組の組員として活動を行っていたのですが、そちらはまた別の章でご紹介させて頂きましょう。

花形敬はステゴロ最強の男?

花形敬の喧嘩の強さは伝説的である事は先程ご紹介したばかりですが、彼の強さは一切道具に頼らないステゴロの強さにありました。そもそも「ステゴロって?」という方のために御説明すると、ステゴロとは武器を一切持たないスタイルで、自分の身体だけを使って戦う事を言います。

花形敬はこのステゴロの強さが尋常ではなく、それが花形敬の数々の伝説の源と成っているのです。でh実際に花形敬はどの様なステゴロ伝説を残しているのでしょうか?ここでは実際にそれら花形敬のステゴロに纏わる伝説や逸話を御覧いただきましょう。

花形敬のステゴロの手法とは

花形敬の得意としたステゴロの手法ですが、とにかく実践的なものだったそうです。特にこれと言った一定の戦法が有る訳ではないのですが、それこそが花形敬の強さの秘訣なのです。どの様な相手を前にしても一切怯まずにしっかりと間合いを掴み、相手を完膚までに叩きのめすのです。

またその腕力の強さは特筆級のモノだったそうです。本気で殴れば相手を殺傷してしまうほどの腕力を持っていたと言われており、一撃必殺的な能力を秘めていたものと考えられます。まさにこの辺りはゲームや漫画のキャラ設定の様ですが、それがリアルな人間なのですから流石に伝説にも成るはずです。

花形敬は誰も太刀打ちも出来ない伝説の喧嘩師だった

花形敬の強さは一言で言えば別次元のモノで、例えるなら軍人レベルだったそうです。軍人は戦う事に特化した職業で言ってみれば戦闘のプロフェッショナルですが、そんな戦闘のプロがアマチュアである一般人と喧嘩したところで、100戦しても負け知らずなのは当然です。

過去に花形敬に挑んだ人間は数知れずですが、何れの人間も花形敬の前には為す術無く叩きのめされています。その中には格闘技に長けた者や拳銃を持ち出す者も居たそうですが、そういった相手も例外なく花形敬の前では皆苦杯をなめる結果に終わっています。花形敬はまさに天下無双の強さを誇る人物だったのです。

花形敬には銃で撃たれても倒れない伝説も

極めつけには花形敬は拳銃で打たれてすら倒れないという伝説が残されています。安藤組には花形敬に勝るとも劣らない喧嘩の達人と言われた森田雅という人物がいたのですが、ある日花形敬はこの森田雅と酒を飲んでいる席でこの人物を殴り飛ばした事がありました。

喧嘩師で売っている森田雅も花形敬に反撃を仕掛けようとしましたが、花形敬に酒が入った時のヤバさも充分承知していた為に、森田雅はその場をグッと堪え家路に着いたそうです。

然しそれを我慢成らぬ目で見つめていたのが森田雅の舎弟です。兄貴が殴られたのを黙って見過ごす訳には行かないと、その舎弟は花形敬を探して街を探し回りました。やがて酔っ払って歩いている花形敬を発見した森田雅の舎弟は花形敬を呼び止め、徐に拳銃を構えたのです。

普通なら花形敬にとって絶体絶命の場面ですが、花形敬はその舎弟に向かって一言「なんじゃそりゃ?」と口にするとそれだけで森田雅の舎弟は身動きが取れなく成ってしまいました。そして「撃つか、喋るかどっちかにしろ!」と発した花形敬はそのまま舎弟を殴り飛ばし、殴られた舎弟は堪らず拳銃の引き金を花形敬に向けて引き降ろしたのです。

銃弾は花形敬の身体を逸れましたが、間髪入れずに花形敬は「このガキが、この俺を撃てるのか」と言いながら森田雅の舎弟に向かって距離を詰めていきます。それに対し意を決した森田雅の舎弟は二度目の引き金を花形敬に向け引き降ろし、放たれた銃弾は花形敬の指を貫きました。

それでも全く怯まない花形敬は「てめえ!しっかり狙わねえと命がねえぞ!」と迫り、花形敬迫力に怯えた森田雅の舎弟は、再度花形敬に向けて引き金を引き絞り、今度は花形敬の身体に銃弾が命中します。然し銃弾を受けたにも関わらず花形敬は倒れず、恐怖した森田雅の舎弟はその場から急ぎ逃げ出して行きました。

 

更に驚きなのがその後花形敬は自らの足で病院へ向かい、治療を受けた後に病院を抜け出して、そのまま朝まで鱈腹酒を飲み、その後女を連れて旅館にしけこんでしまっているのです。銃弾が身体を貫通していた事もあり、わりかし治療はスムーズだったのかも知れませんが、それでも銃で打たれたことには変わりありません。

にも関わらず、撃たれた後もピンピンして遊び回っていたというのですから、そもそもの身体の作りが違うとしか考えられません。この様な人間を相手に喧嘩をしたとして一般人が叶うはずがありませんよね。花形敬の化物っぷりを物語る最たるエピソードとして、この話は今も伝説と成っています。

花形敬刺殺事件とは

「戦後の東京を代表する怪物」「稀代の喧嘩師」「伝説の男」など、数多くの異名を持つ伝説のヤクザ「花形敬」。無敵と言っても良い強さを誇った花形敬も、最後は刺客に手によって命を落としています。続いては花形敬刺殺事件についてその経緯をご紹介して参りたいと思います。

花形敬が東声会の刺客により刺殺された事件

「花形敬刺殺事件」とは、昭和38年(1963年)9月27日午後11時15分頃、当時安藤組組長代行であった花形敬が、神奈川県川崎市(現・川崎市高津区)二子56にある料亭「仙寅」前の路上で、東声会(現在は二代目東声会)の刺客2名によって刺殺された事件です。

東京中にその名を轟かせた安藤組の大幹部である花形敬の死は、当時大きな話題と成りました。「殺しても死なないと」まで言われた花形敬が殺害されたという事を、にわかに信じられないといった人も多かったと言います。
 

発端は安藤組と東声会組員同士の喧嘩

この事件の発端は、昭和38年(1963年)8月に安藤組幹部で花形敬の舎弟である西原健吾の若衆・田中が、東京都渋谷区宇田川町で岡村吾一が会長を務める岡村文化部の組員と乱闘を起こし、その仲裁に東声会組員の小川が入った事でした。

この小川の仲裁のやり方が気に入らないとした田中は、今度は仲裁に入った小川と揉めだし、小川を旧陸軍練兵場・代々木の原に呼び出した田中は、舎弟とともに登山ナイフで小川の顔に18ヵ所、そして身体にも3ヶ所程斬りつけたのです。

その後田中とその舎弟は花形敬にこの事を報告し、その足で警察に自首。報告を受けた花形敬は安藤昇の兄貴分である小林光也に相談します。小林光也は当時東声会副会長であった平野富士松と昵懇の仲である日本大学役員の工藤に取り成しを依頼。

工藤が平野に電話したところ「神戸に所用があるため東京に戻り次第連絡する」との返答だった為、この後工藤は平野からの折返しがあり次第花形敬に連絡する事を小林光也に対し約束したそうです。

その後も安藤組と東声会の和解について、花形敬や関係者、そして渋谷の島持ちヤクザである高橋岩太郎落合一家総長等が間に入り調停を進め、互いの腹を探りながらも具体的な和解に向けて着々と話が進められていったのです。実際この事件は安藤組に分が悪く、花形敬も東声会に対し非を詫びる用意があった様です。

そして9月27日午後10時ごろ、高橋岩太郎は自身の兄貴分である渥美幸一郎から東声会と安藤組の和解条件について連絡を受けました。それを受けた高橋岩太郎は安藤組事務所に連絡するも既に花形敬は5分前に事務所を後にしていたのです。

花形敬は事務所を出た後、新宿にあるクラブで知り合いと酒を飲んだ後、自ら運転する黒のルノーで自宅アパートの有る神奈川県川崎市二子の多摩川土手へと向かいます。

待ち伏せされた花形敬が襲撃を受ける

27日午後11時15分頃、車を降りた花形敬は自宅アパートへと向かう途中に、神奈川県川崎市二子56の料亭「仙寅」前の路上で待ち伏せていた東声会の刺客2名から襲撃を受けます。犯人は短刀の様なモノで花形敬を背後から刺したのではないかと見られています。

この襲撃により花形敬はその場で絶命したと言われています。伝説の喧嘩師にしてステゴロの神様と呼ばれた花形敬は、こうして33年の短い生涯を終える事に成りました。

目撃者も銃撃され病院へ搬送

この事件を偶々目撃していたのが「仙寅」の従業員と高校生2名でした。3人は花形敬を襲った犯人を付け、現場から約150メートル離れた多摩川土手沿いの道路に待たせていた黒塗りの車に乗り込むところまで追跡を行いました。

この車に乗り込んだ刺客はその追跡に気が付いたのか車内から3人に向けて発砲を行い、そのうちの銃弾一発が仙寅店員の左肺を貫通。その後近くの溝ノ口病院へと搬送されています。恐らく犯人は彼らを事件の目撃者ではなく安藤組の追手であると考えていたのではないでしょうか?

花形敬の母親が通夜で伝えた事とは

事件の後、花形敬の妻からの花形敬が殺害された事を電話で知らされた佐藤昭二ら安藤組幹部達は、花形敬の遺体が安置されている病院へとに向かいます。そして病院に付いた佐藤は花形敬の死を確認すると、代官山の自宅で待機していた高橋岩太郎に連絡を入れ、一同は一度青山にある安藤組事務所に集まる事に成りました。

当然安藤組の若衆の中には東声会への報復に走ろうとする者がこの時点で数多くおりましたが、高橋岩太郎がこれを諌め、何とか静止。花形敬を送り出す事を何よりも優先することを確かめ合ったそうです。

その後花形敬の遺体は東京都世田谷区経堂にある彼の実家に運び込まれ、そこで花形敬の通夜が営まれました。変わり果てた息子の姿を見て花形敬の母親は当初泣き崩れていたそうですが、その後は気丈に振る舞い、通夜に訪れる人々の対応を行っていたと言います。

午後8時頃、佐藤の案内で高橋岩太郎が花形敬の通夜に訪れると、花形敬の母親は高橋岩太郎に対しある願いを伝えたと言います。花形敬の母親が高橋岩太郎に涙ながらに伝えたお願いとは「決して息子の弔い合戦は行わない様に安藤組の若衆に伝えてください」という物でした。

「誰にも親があり、子が殺されれば親が悲しむ」その事を花形敬の母親は自ら身を以て体感し、弔い合戦によって同じ思いをする親がこれ以上生まれない様にと、そう願ったのです。この気骨な母親の願いは多くの者の心を打ったのではないでしょうか。
 

この花形敬刺殺事件が発生した際、安藤昇は前橋刑務所に収監中で、獄中でこの事件を知ったモノと考えられます。大のお気に入りだった花形敬が殺害されるという事件が有ったにも関わらず、自らは何も出来ないというその状況はさぞ悔しかったことでしょう。

花形敬がモデルの作品

伝説の喧嘩師との異名を持つ花形敬ですが、実は彼をモデルとした作品があるのを御存知でしょうか?然もその作品の中には現在大人気と成っている超有名作品が含まれているのです。ここではそんな花形敬がモデルに成った作品をご紹介したいと思います。

漫画「グラップラー刃牙」に登場する花山薫のモデルは花形敬

現在も大人気連載中である格闘技漫画「刃牙シリーズ」。格闘技漫画の中でも人気No.1のこの作品ですが、この刃牙シリーズの中でも特に人気の高いキャラクターの一人である「花山薫」は、花形敬をモデルとしたキャラである事はかなり有名な話です。花山薫のモデルが花形敬以外である筈が無いというレベルの寄せ方ですね。

花山薫の設定はヤクザで体格が大きく腕力も強い、そしてステゴロが得意と、まさに絵に描いたような花形敬っぷりです。また、花山薫は花形敬のスカーフェイスもしっかりと受け継いでおり、モデルである花形敬を忠実に再現したキャラクターと成っています。花山薫からそのモデルと成った花形敬を知ったという方も割と多い様ですね。

花山薫は花形敬をモデルとした架空の人物

勿論花山薫は花形敬をモデルにして作り上げられたキャラクターで、現実に花山薫は存在していません。然しその存在感は花山薫という人物が実在しているか如くの圧倒感が有ります。だからでしょうか、一度花山薫のモデルは現在も実在の人物だと噂が流れた事がありました。

勿論見る人が見れば花山薫は花形敬がモデルに成っていることは一目瞭然ですし、花形敬はかなり昔にお亡くなりに成られている事は周知の事実です。然し余りにも花山薫というキャラが魅力的な為、花山薫と花形敬のどちらも別々のリアルに捉えられてしまったのかも知れません。

ただ繰り返しておきますが、花山薫は花形敬をモデルとした架空のキャラクターで、実際のモデルと成った花形敬は先程ご紹介した事件により既にお亡くなりに成られております。ここは間違えない様にしましょう。

安藤昇が描いた漫画「餓狼の系譜」

また、安藤組組長で、その後華麗なる転身を果たした安藤昇が過去に描いた漫画「餓狼の系譜」にも花形敬が登場しています。こちらは「実録安藤組」といった漫画なので、モデル等ではなく花形敬そのものが漫画として描かれているという感じですね。

本田靖春の著書「疵・花形敬とその時代」

またジャーナリスト、ノンフィクション作家として知られる本田靖春の著書の中にも「疵・花形敬とその時代」といったタイトルの作品がございますが、こちらもタイトル通り花形敬について書き記した作品と成っているので、もっと花形敬の事を知りたいという方にはおすすめです。

映画「安藤組外伝・人斬り舎弟」

また1974年11月1日に公開された「実録安藤組」シリーズの第三作目「安藤組外伝・人斬り舎弟」という映画も、花形敬を主人公に据えた作品として知られています。花形敬という実名では登場しませんが、誰が花形敬なのかは一目瞭然です。

花形敬の生い立ちや家族

続いては伝説の喧嘩師である花形敬の生い立ちや家族について振り返って参りましょう。伝説の喧嘩師と呼ばれる事となった花形敬は、どの様な幼少期を過ごし、育って来たのでしょうか?

高身長で迫力ある体型だった花形敬

幼い頃から一際体つきの大きな子供として知られていた花形敬。同学年の子供たちとはその体のサイズや作りが明らかに違う程、非常に立派な体格の持ち主だったそうです。早くから近所の悪ガキを従えて歩いていたというのですから、昔から相当に強かったのでしょう。

中学時代の花形敬は現役ボクサー相手にワンパンで勝利している

花形刑は中学時代に現役のプロボクサーと対戦した事があったそうです。ボクサーも相手は中学生なので甘く見ていたのかも知れませんが、そのボクサーはたった一発のパンチでマットに沈められているのです。

そしてさすがはプロです。彼はその一発のパンチがどれほどのモノだったのかを即座に感じ、花形敬に「君が本気で殴れば人を殺してしまうだろうから、殴る時は平手にした方が良い」と冷静にアドバイスを行ったと言います。

海軍兵学校への入学を目指していた花形敬

実は花形敬は最初から不良然とした人間ではありませんでした。彼は元々は海軍兵学校入り目指して日々勉強に励む様な人間だったのです。

目を悪くした花形敬は不良の道へ

そんな彼が何故不良の道にドロップアウトしたかと言うと、「視力の低下」が原因だったそうです。海軍兵学校に入るためには規定の視力を上回らなければ成らないのですが、あいにく花形敬は目が悪く、海軍兵学校に入るために必要な視力を下回ってしまったのだとか。その後「自分の体格を活かす事が出来るのはヤクザしか無い」と考えたのかも。

千歳中学校を自主退学後国士舘中学校に編入した花形敬

花形敬は千歳中学校を自主退学すると、国士舘中学校に編入。当時の国士舘といえば不良の巣窟と呼ばれた程で、ここで花形敬は番長の座を後の住吉会住吉一家石井会会長である石井福造と競い合い、その時の縁で後に石井から安藤昇を紹介される事に成ります。

花形敬は結婚してる?花形敬に子供はいた?

花形敬の家族については殆ど情報がありませんが、彼が亡くなった時に「妻から連絡を受け」という記述が残されているので、内縁関係若しくは本妻がいた可能性はあります。然し子供については一切の情報が無いので分かりません。

花形敬は複数の女性と関係を持っていた

花形敬は豪快な男性で、常に複数の女性と関係を持っていたそうです。「英雄色を好む」と言いますが、花形敬も見事にそのタイプだった様ですね。

花形敬の交友関係

花形敬は安藤組組長である安藤昇のお気に入りだった

彼が安藤組の組長代行を勤めていた事でも分かるように、花形敬は安藤昇組長の特にお気に入りだったと言われています。自身が収監中は全てを花形敬に任せていた程で、安藤昇は彼に全幅の信頼を置いていたのだと考えられます。

花形敬は作家である安部譲二の大先輩⁉

「塀の中の懲りない面々」で知られる作家の安部譲二。彼は花形敬の後輩であると言われていますが、それもその筈で、安部譲二も元々は安藤組の組員だったのです。よって花形敬は安部譲二の大先輩に当たると言う訳です。

あの力道山も花形敬に屈服した

実は花形敬は、あの力道山をも屈服させています。当時力道山は渋谷にOPENした飲食店の用心棒を勤めていたそうですが、挨拶なしに渋谷へ店をOPENさせた事に対し花形敬がその店に直接乗り込み、そこに居た力道山を一喝したそうです。

力道山と花形敬の関係には異説も?

ただこの節には異論もあり、実際に花形と力道山はバッティング知らおらず、花形とは別の人間が力道山とぶつかったという説もあるようです。何れにしてもどちらの既に他界されているので真相は分かりません。

花形敬は戦後史に残る伝説の喧嘩師だった

という訳で、今回は「伝説の喧嘩師」こと花形敬についてご紹介して参りました。伝説の1ページに名を刻む花形敬は、その伝説に相応しい数々のエピソードを持つ人物でした。戦後史に残る怪物として、彼の英雄伝はこれからも多くの人々によって語り継がれていくことでしょう。

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