【勝田清孝連続殺人事件】事件の概要や犯人の生い立ち!判決やその後も!

10年もの間、昼間は消防士で夜は殺人犯という顔を持っていた勝田清孝。連続殺人事件の犯人として裁判で死刑判決を受けました。借金のために8人もの人を殺害するに至った勝田清孝の父親との関係や結婚生活、さらには生い立ちや死刑判決後の様子についてみていきます!

【勝田清孝連続殺人事件】事件の概要や犯人の生い立ち!判決やその後も!のイメージ

目次

  1. 1勝田清孝とは
  2. 2勝田清孝事件の詳細
  3. 3勝田清孝事件の裁判
  4. 4勝田清孝の生い立ちや経歴
  5. 5勝田清孝の家族
  6. 6勝田清孝に関するその他の情報
  7. 7勝田清孝は凶悪なシリアルキラー

勝田清孝とは

1972年から1983年にかけて日本中を震撼させた連続殺人事件の犯人であり、シリアルキラーと呼ばれた「勝田清孝」をご存知でしょうか?8人の男女を殺害しながらも、何食わぬ顔で日常に溶け込んでいたことに恐怖を覚えた人も多かったはずです。

それでは数々の殺人事件を犯しながらも逮捕を免れ続け、1983年の逮捕により凶悪な殺人事件が次々と明るみなっていった勝田清孝についてみていきます。

連続殺人事件の犯人

1972年の9月に当時24歳のホステスが殺害されて以来、間隔は一定ではないものの1977年の8月までに5人の女性が勝田清孝によって殺害され金品を奪われました。その後、銃を手に入れた勝田清孝の犯行はより大胆になっていきます。

銃で脅して金品を奪った末に殺害をするという手口で次々と殺人を犯し、さらに警官の銃を強奪するとより大きな金額を狙って3人を殺害しました。どんどんとエスカレートする勝田清孝の犯行は1983年の1月に逮捕されたことで終焉を迎えます。

勝田清孝事件の詳細

これまでの日本の犯罪史において凶悪事件と呼ばれた事件は数多くありますが、連続殺人事件の犯人として勝田清孝を覚えているという人も多いのではないでしょうか?それほどまでにショッキングなニュースとして扱われていました。

では勝田清孝が起こした連続殺人事件とは一体どんなものだったのでしょうか?ここでは勝田清孝が起こした殺人事件の詳細についてみていきます。

事件発覚のきっかけ

逮捕後に8人を殺害していたことが発覚し世間を震え上がらせた勝田清孝ですが、その連続殺人が発覚するきっかけはあまりにもあっけないものだったことをご存知でしょうか?それは1983年1月31日、第一勧業銀行御器所(ごきそ)支店でのことでした。

その日も勝田清孝は金品を強奪するためお金を持っていそうな人に狙いを定めていたそうです。そこに現れたのが逮捕されるきっかけとなった男性でした。銀行で用を足し車に乗り込んだところで銃を突き付けられますが、隙を見て近くの人に応援を呼びます。

その男性は勝田清孝と揉み合いになりながらも必死に抵抗を続け、遂には駆け付けた警察官により御用となりました。この未遂事件が後の連続殺人事件が発覚するきっかけとなるとは誰もが気づいていなかったことでしょう。

約10年間で8人が殺害される

1983年1月31日に強盗致傷容疑で逮捕をされた勝田清孝ですが、この時はまだ日本中を震撼させた連続殺人犯だとは誰も気づいていませんでした。警察庁重要広域指定113号事件、いわゆる警察官の銃を奪い殺人に及んだ犯人だということは判明したそうです。

しかし、その後の警察の取り調べにより勝田清孝は次々と殺人を自供します。その殺人は1972年から1982年までの間に8人を殺害するという犯罪史上まれにみる連続殺人事件でした。

強盗殺人①中村博子

1972年9月13日、かねてよりお金に窮していた勝田清孝は京都府山科区で空き巣に入る家を物色していました。何軒かの家に侵入してみたもののさほど収穫はなく、どうしようかと逡巡していた時に、窓のサッシが10cmほど開いているアパートが目に入ります。

中を覗くとハンドバッグが見えたため、勝田清孝は中に人がいるのも確認せずに入ってしまいました。そこで勝田清孝は住人であるホステスの中村博子さん(24歳)に見つかってしまいます。

勝田清孝は金品を要求しますが、中村博子さんはお金がないことを告げ代わりに自分の体を差し出すと伝えました。勝田清孝は強姦しておけば後々警察に届け出ないのではないかと考えます。

通報できなくするために強姦をして財布にあった1000円を奪い逃走しようとしましたが、顔を見られてしまったために近くにあったパンストで中村博子さんを絞殺してしまいます。

強盗殺人②藤代玲子

空き巣に入って金品を盗むつもりが殺人まで犯してしまった勝田清孝は、罪の意識にさいなまれたそうです。二度と殺人はしないと誓ったものの、お金に窮していた勝田清孝は空き巣稼業からは足を洗えず1975年7月6日に2件目の殺人を犯してしまいます。

当時大阪府吹田市で空き巣に入るために物色をしていた勝田清孝は、マンションの住人であるクラブ経営者の藤代玲子さん(35歳)から車が邪魔だと言われてしまいました。この発言にカッときた勝田清孝は藤代玲子さんからひったくりをしようと考えます。

しかし、ひったくりに失敗して顔を見られた勝田清孝は、マンションの通路という人目のある場所であったにもかかわらず藤代玲子さんをロープで殺害してしまいました。計画的な殺人ではなかったために遺体の処理に窮します。

とりあえず藤代玲子さんの愛車であったフェアレディZに乗せて、農業用の池に遺体を遺棄し指紋がついていたフェアレディZは燃やしてしまうことで証拠隠滅を図りました。この事件では勝田清孝は10万円を奪っているそうです。

強盗殺人③伊藤照子

1976年3月5日、勝田清孝は遂に3件目の殺人を犯してしまいます。名古屋市中区で空き巣に入る家を物色していた勝田清孝は、高級外車であるカマロに乗ったホステスの伊藤照子さん(32歳)に狙いを定めました。

名古屋市千代田区においてハンドバッグをひったくろうとしたものの失敗したために殺害をしてしまいます。遺体はカマロに乗せて田んぼに遺棄、車は放置しました。この時は被害者の陰部にススキを挿して変質者の犯行に見せるなどの画策をし12万円を奪います。

強盗殺人④増田安紀子

1977年6月30日、名古屋市南区のマンションで住人であるマージャン店店員の増田安紀子さん(28歳)が犬とともに家を出るところを見かけたそうです。すぐには戻らないと踏んだ勝田清孝は、施錠されていないドアから侵入し4万円を奪って逃走しようとしました。

しかし、住人の増田安紀子さんが戻ってきてしまい勝田清孝と鉢合わせてしまいます。当初は殺すつもりはなかったようですが、騒がれてしまったためにまたしてもパンストで殺害してしまいます。

強盗殺人⑤識名ヨシ子

決して殺人をしたいわけではなく純粋に空き巣でお金を手に入れようと思っていた勝田清孝ですが、1977年8月12日に5件目の殺人を犯してしまいました。名古屋市昭和区のマンションで空き巣に入るための部屋を物色している時にそれは起こります。

マンションの部屋を物色する勝田清孝を不審に思った美容師の識名ヨシ子さん(33歳)に声をかけられます。顔を見られたと思った勝田清孝は、咄嗟に識名ヨシ子さんを部屋に押し込め首を絞めて殺害してしまいました。この時は45万円相当の指輪を奪います。

強盗殺人⑥井上裕正

1977年12月13日、勝田清孝はとうとう6件目の殺人を犯してしまいました。この頃には狩猟免許を取得し銃を扱えるようになっていた勝田清孝は、同年11月20日に奈良県天理市で散弾銃を盗みます。この事件から銃を使った殺人へと変わりました。

神戸市中央区にある兵庫労働金庫神戸東支店の井上裕正さん(25歳)に向けて散弾銃を発射。散弾30発以上を受けた井上裕正さんは2日後に死亡してしまいます。この時の勝田清孝は井上裕正さんから410万円を奪い逃走しました。

強盗殺人⑦本間一郎

6件目の殺人から銃を使用するようになり、より大金を狙うようになった勝田清孝は1980年7月31日、名古屋市名東区にある「中部松坂屋ストア」に狙いを定めます。事前に猟銃愛好家ら散弾を盗んでいた勝田清孝は閉店になるのをじっと待ちました。

やがて閉店を迎え帰宅しようとした夜間店長の本間一郎さん(35歳)に散弾銃を突きつけ現金を要求します。金庫を開けさせ576万円を奪った勝田清孝でしたが、本間一郎さんの抵抗にあってしまい散弾銃を発射して殺害してしまいました。

強盗殺人⑧神山光春

7人もの人を次々と殺害していった勝田清孝でしたが、この頃になると散弾銃よりもかさばらない短銃での犯行を計画します。事故を装って警察官を呼び出し、車で撥ねた上に激しい暴行を加え警察官の銃を奪ったのです。

警察官から奪った銃を使い、大津サービスエリアに停車していた溶接工の神山光春さん(27歳)の車に無理やり乗りこみました。殺害するつもりはなかったようですが、激しく抵抗されたために銃で殺害してしまいます。この時は4万円を奪いました。

22人殺害したと自供

1983年1月31日に起きた第一勧業銀行御器所支店での強盗致傷容疑で逮捕された勝田清孝ですが、その後の取り調べで次々と殺人を犯していたことを自供しました。その理由は勝田清孝に接していた刑事の人としての温もりにあったそうです。

刑事の温もりに触れた勝田清孝は、上記の8人の殺害の他に14名を殺害していることを自供しました。残る14名については記憶が曖昧なことと証拠が残っていなかったために立件されなかったと言われています。

勝田清孝事件の裁判

シリアルキラーと呼ばれ8人もの尊い命を奪ってしまった勝田清孝ですが、その後の裁判の行方に誰もが注目していたのではないでしょうか?

ここでは、勝田清孝が1972年から1980年までの間に犯した7件の殺人事件の裁判と、警察官から銃を奪って殺人を犯した1982年の警視庁広域重要指定113号事件の裁判についてみていきます。

7件の殺害事件で死刑判決

連続殺人を犯し続けたために否が応でもその裁判に注目が集まってしまった勝田清孝ですが、名古屋地裁で行われた裁判では世間の大方の予想通り死刑の判決が出てしまいます。この裁判での判決を受けて量刑が重すぎると名古屋高裁に控訴をしました。

名古屋高裁での裁判でも死刑判決の是非について争われます。弁護側は量刑が重すぎると主張し、検察側は死刑が相当であるとの主張で真っ向から対立をしました。しかし名古屋高裁での裁判でも地裁の判決を支持するとし死刑が言い渡されました。

名古屋高裁での裁判の判決を不服とした勝田清孝は最高裁に上告をします。最高裁で行われた裁判でも地裁と高裁の判決はやむなしとして、1994年に勝田清孝に死刑判決が出されました。この判決を以って逮捕から11年に及んだ長い裁判は終わりを迎えます。

113号事件で死刑判決

1972年から1980年までに7人を殺害した裁判とは別に、警視庁広域重要指定113号事件の裁判も同時に行われていました。7人を殺害した事件の裁判では上記の通り死刑判決が下りましたが、113号事件の裁判でも死刑判決が出ます。

逮捕されてから被害者への謝罪の言葉を述べて心から反省をしていた勝田清孝ですが、やはり事件の残虐性などを考慮したうえでの死刑判決だったそうです。

2000年11月30日に死刑執行

1983年の逮捕から11年にわたり続けられた裁判では、勝田清孝の被害者への謝罪の言葉や反省している様子が伝えられました。死刑を支持する人と死刑に反対する人により論争が巻き起こったそうです。

勝田清孝を死刑にすることにより罪を償わせるべきではないとして、勝田清孝を救済する運動が起きます。しかしそんな世論の動きとは裏腹に、2000年11月30日に勝田清孝の死刑が執行されてしまいました。

義理の姉に感謝の手紙

2000年11月30日に死刑が執行されてしまった勝田清孝は、死刑になる前に支援者であった女性と養子縁組をし「藤原清孝」となっています。死刑に際し義理の姉となった女性に感謝の手紙を書いていたそうです。

これまでの事件に対する後悔と謝罪、それにお世話になった義姉に対して感謝の気持ちがつづられていました。

勝田清孝の生い立ちや経歴

1972年から1982年にかけて8人を殺害し、2000年に死刑が執行されてしまった勝田清孝は一体どのような人生を歩んできたのか気になるのではないでしょうか?もしかするとその人生の中に連続殺人事件の犯人になってしまった闇が隠されているのかもしれません。

ここでは、連続殺人事件の犯人になってしまった勝田清孝の生い立ちとなかなか定職に就けなかったという経歴についてみていきます。

京都生まれで孤独な幼少期

京都府相楽郡木津町鹿背山という小さな集落で農家の長男として生まれた勝田清孝は、1歳年上の姉とともに幼少期を過ごしていました。決して裕福ではなかったものの、教育熱心な父親は息子を保育園に通わせていたそうです。

しかし父親も母親も仕事で忙しかったために息子である勝田清孝にほとんど構ってやることができなかった上、父親の厳しさも相まって大人の顔色をうかがう子供になってしまいました。

高校時代から多くの犯罪を働く

厳格な父親の影響もあって大人の顔色をうかがいながら育ってきた勝田清孝ですが、1964年に京都府立木津高校農業科に進学をします。元々高校へ進学した理由は吹奏楽が楽しみだったからだそうで、父親からの農業の手伝いの催促に辟易としていました。

小さい頃からお金への執着があったと言われる勝田清孝は、高校時代にはお金を手に入れるために学食の食券を盗む行為に手を染めます。一度悪事に手を染めてしまった勝田清孝はさらに悪事を重ねていきました。

手っ取り早くお金を手に入れるために、ひったくりや売店荒らしなどを行うようになります。そして20数件のひったくりをしたところで警察に捕まってしまいました。

少年院送致で高校退学

高校時代にひったくりという犯罪に手を染めた勝田清孝ですが、警察に捕まったことで高校を退学になってしまうのではないかと戦々恐々としていたそうです。

そんな折、それまで厳しく接してきた父親が面会にきます。田畑を売り被害者への弁済にあてたことを知って高校に戻って真っ当に生きようと決意をしますが、非情にも高校は退学処分となってしまい、さらには大阪和泉少年院への送致が決まってしまいました。

自動車部品会社から鉄工所へ

1966年、大阪の和泉少年院を退院した勝田清孝は、自分のために田畑を売ってまで弁済してくれた父親のために真っ当に働こうとします。父親の紹介で自動車部品会社に就職をし、父親の面子を潰してはいけないと懸命に働いたそうです。

しかし、会社の同僚の財布がなくなったことで勝田清孝は犯人扱いを受けてしまいました。父親の面子を潰してはいけないと我慢をしてきましたが、犯人扱いをされイジメを受けたことで我慢ができなくなり父親に紹介された自動車部品会社を退職してしまいます。

仕事を失い途方に暮れているところに、友達から大阪の鉄工所で人手が不足しているから入社してくれないかという誘いを受けました。そうして勝田清孝は大阪の鉄工所に入社を決めたのです。

結婚後運送会社に勤務

この頃付き合っていた女性と結婚をした勝田清孝は、前職の会社の転勤により奈良に住んでいました。結婚をするにあたって新しい仕事を探していた勝田清孝は、給料の良かった運送会社への就職を決めます。

当時免許のなかった勝田清孝はトラックの免許を取得し、長距離運転のドライバーとして働き始めました。ここには結婚をした妻に楽をさせたいという思いと運送屋として独立するという夢があったそうです。

殺害容疑をきっかけにクビになる

結婚をして運送会社で一生懸命に働いていた勝田清孝ですが、またしても運命の歯車が狂ってしまいます。隣町の奈良県加茂町で女性が暴行され殺害されてしまうという事件が起き、勝田清孝が犯人ではないかと疑われてしまったのです。

当時の警察は少年院上がりだった勝田清孝が犯人ではないかと執拗に調べていました。結局は勝田清孝が犯人ではないことが証明されたのですが、会社に悪い評判がたってしまいクビになってしまいます。

23歳で消防士になる

運送会社に就職をして、これからという時に犯人扱いを受けてクビになってしまった勝田清孝ですが、結婚をして子供もいたことから地元の消防士の試験を受けてみないかという話が舞い込みます。

父親の勧めであったものの地元で勤務することに抵抗のあった勝田清孝は、消防士の試験に二の足を踏んだそうです。しかし本人の気持ちとは裏腹に消防士の試験に合格してしまった勝田清孝は、その後消防士として素晴らしい実績を残しました。

23歳で晴れて地元である相楽中消防組合の消防士となった勝田清孝は、救難救助訓練の東近畿大会に連続出場を果たし、全国大会へも3年連続で出場するほどの実力をつけたそうです。

消防士として輝かしい実績を残した勝田清孝は2年後に副士長、さらに2年後には消防士長にまで上り詰めました。この頃に、後に身持ちを崩してしまう原因となる酒を飲み始めたようです。

勝田清孝の家族

10年間の間に8人の男女を殺害した犯人として逮捕され死刑判決を受けてしまった勝田清孝ですが、その家族はどうなっていたのかが気になるのではないでしょうか?それだけの犯罪を犯せるのだから独身だったと考える人もいるでしょう。

しかし、勝田清孝は結婚をして妻と子供がいました。ここでは、連続殺人の犯人として逮捕された勝田清孝の家族についてみていきます。

同棲女性と駆け落ちする

大阪の和泉少年院を退院して職を転々としていた1968年。父親に紹介された自動車部品会社を退職し、友人の紹介で大阪の鉄工所に就職が決まった頃、勝田清孝には付き合っていた女性がいました。

結婚をしたい旨をお互いの両親に伝えたものの、彼女の親からは少年院上がりに娘をやれないと言われ自分の親からは格が違うと許しをもらうことができませんでした。そこで鉄工所に勤めるのと同時に、大阪に駆け落ちをしてしまいます。

結婚して子供が生まれる

大阪の鉄工所に勤めることになって駆け落ち同然に彼女を連れてきてしまった勝田清孝は、いくつか職を変わってはいたものの真面目に仕事に励んでいました。そして運送会社に勤めていた時に父親から結婚の許しをもらいます。

当時の勝田清孝は借金もあり結婚資金をためてからの結婚と考えていましたが、父親の強い要望を受け入れる形で1970年3月に結婚式を挙げました。結婚式の翌年には長男も誕生します。

妻が自殺未遂

父親の強い勧めで結婚式を挙げ、子供も生まれるという平穏な生活を迎えるかに思えた勝田清孝ですが、やはりうまくはいきませんでした。元来の酒好きと女遊びに加えて趣味の車にお金をかけるという生活は変わらず、借金に借金を重ねる状態になっていました。

昼間は消防士として働き夜は空き巣や殺人を繰り返します。手に入れたお金も借金の返済に充てるわけではなく散在してしました。その頃には愛人のためにも借金を重ねるようになり、それを知った妻はショックのあまり自殺未遂までしてしまいます。

勝田清孝に関するその他の情報

金品目当ての空き巣を行っていた勝田清孝が、なぜ殺人まで犯すようになってしまったのか気になるのではないでしょうか?借金返済のためにお金が欲しかったという動機があったことは間違いありませんが、その理由についても気になってしまうものです。

ここでは、消防士という真っ当な仕事に就きながらも残忍な犯行を行った勝田清孝のことを語る上で、知っておかなければならない情報についてみていきます。

豪遊で多額の借金を抱えていた

消防士という真っ当な仕事に就きながらも莫大な借金を抱えてしまっていた勝田清孝ですが、やはり生まれ持った浪費癖に原因があるようです。

毎晩のように飲み歩き、高級車2台とゴルフ会員権まで持ち、さらには趣味の無線に多額のお金をかけて愛人まで作るという体たらくでした。これらのことに費やすお金はもちろん消防士の給料だけでは賄えず、借金に借金を重ねるという状態だったそうです。

父親に嘘をついて200万を借りる

この頃には結婚もして子供も生まれていた勝田清孝は、家族を養うために消防士として真面目に働いていました。しかし、前述したように浪費癖のあった勝田清孝は借金に借金を重ね消防士の給料だけではどうにもならなくなってしまいます。

そこでこれまで積み上げてしまった借金を清算するために、父親からお金を借りるという手段に出ました。「賭博で負けた」と嘘をつき、まんまと父親から200万円を借りることに成功します。

クイズ番組「夫婦でドンピシャ!」に出演

消防士として働くものの浪費癖は一向に直らず借金返済のために空き巣と殺人を繰り返すようになっていた勝田清孝は、この頃驚くべき行動に出ていました。

1977年8月20日に放送された「夫婦でドンピシャ!」という番組に出演をします。出されたクイズの答えが夫婦で同じなら賞金がもらえるという番組で、勝田清孝は見事に優勝を飾りました。この時は賞金8万円と商品券10万円を手に入れたそうです。

殺人6日後に出演していた?

仲睦まじい夫婦として「夫婦でドンピシャ!」に出演をしていた勝田清孝ですが、きっとこの頃の勝田清孝は借金に借金を重ねていたため普通の精神状態ではなかったのではないでしょうか?驚くべきことに殺人を犯した6日後に出演をしていたのです。

放送は1977年の8月20日でしたが収録は7月6日に行われました。この6日前、つまり6月30日に勝田清孝はホステスである増田安紀子さんを殺害していたというから驚きです。

勝田清孝は在日韓国人?

これだけの連続殺人を犯し世間を騒がせた勝田清孝ですが、実は在日韓国人ではないかと噂が立っているようです。得てしてこのような大事件が起こった時にはこのような噂が流れるものですが、勝田清孝が在日韓国人であるという確固たる証拠はありませんでした。

勝田清孝は凶悪なシリアルキラー

1972年から1982年にかけて8人もの人たちを殺害してきた勝田清孝は、昼間は消防士として働き夜は殺人犯という状態でした。勝田清孝が世の中に溶け込んでいたことに世間が騒然となったことは言うまでもありません。

最後は死刑の判決を受け刑が執行されたことにより事件は終結したものと思われていますが、遺族の悔しさは計り知れないものがあるはずです。シリアルキラーと呼ばれた勝田清孝については、凶悪事件の犯人として今後の犯罪の抑止に生かしていくべきでしょう。

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この記事のライター
大橋類太郎
北海道の田舎に住んでいる大橋類太郎です。 ドライブが好きで暇さえあれば広い北海道を走り回っています。 コツ...

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