木田勇投手の現在!引退のその後は?現役時代の成績などまとめ

元プロ野球選手の木田勇投手の現在について紹介します。日本ハムファイターズに入団し新人王に輝いた木田勇選手は、その後どういった経歴を歩んだか調査しました。現役時代の成績や引退後のその後に注目です。現在も野球に携わっているのか確認しましょう。

木田勇投手の現在!引退のその後は?現役時代の成績などまとめのイメージ

目次

  1. 1木田勇投手のプロフィール
  2. 2木田勇投手の現在
  3. 3木田勇投手の引退のその後は?
  4. 4木田勇投手の現役時代の成績
  5. 5木田勇投手の野球経歴
  6. 6木田勇投手の現在は引退しサラリーマン生活を経て監督や解説業

木田勇投手のプロフィール

愛称:???
本名:木田勇
生年月日:1954年6月7日
年齢:65歳(2019年11月現在)
出身地:神奈川県横浜市旭区
血液型:???
身長:180cm
体重:75kg
活動内容:元プロ野球選手、監督
所属グループ:元日本ハムファイターズ、元横浜大洋ホエールズ、元中日ドラゴンズ
事務所:なし
家族構成:???

木田勇の経歴

木田勇はプロ野球選手として活躍した人物です。横浜第一商業高等学校から、日本鋼管で社会人野球を経験しています。高校時代は夏の選手権大会において、決勝戦延長延長11回で惜しくも破れています。社会人野球ではエースとして活躍し、準優勝に輝きました。

社会人野球での活躍に注目が集まり、1978年のドラフト会議で大洋ホエールズ、広島東洋カープ、阪急ブレーブスの3球団から1位指名されています。抽選の結果、広島東洋カープが交渉権を獲得したものの、木田勇はこれを拒否しています。拒否した理由は、木田勇が在京セ・リーグ球団を強く希望したため、と噂されています。

木田勇の父親が胃がん、母親が胆石を患っており、長男として家族の近くに居たかったという事情も関係していました。両親は自由に球団を選ぶように薦めたものの、プロ入りは翌年まで持ち越されました。1979年に読売ジャイアンツ、日本ハムファイターズ、大洋ホエールズから1位指名されて、日本ハムファイターズが交渉権を獲得しています。

木田勇の希望である在京球団では無かったものの、結果的に入団を決意しています。ルーキーイヤーから活躍し、最多勝・最優秀防御率・最高勝率・最多奪三振を記録し、新人王とMVPに輝きました。その後も横浜大洋ホエールズ、中日ドラゴンズでプレイし、独立リーグの信濃グランセローズで監督も経験しています。

木田勇投手の現在

プロ野球選手として活躍した木田勇ですが、現在はどういった活動をしているのでしょうか?ルーキーイヤーに大活躍した木田勇だけに、その後の活躍が気になるところです。現在も現役時代のように野球に関わっているかもしれません。木田勇の現在までの経歴を確認しましょう。

2019年の誕生日で年齢65歳の木田勇

木田勇は2019年の誕生日で年齢が65歳になります。木田勇と同年代の元プロ野球選手には、読売ジャイアンツの中畑清、阪神タイガースのランディ・バース、大洋ホエールズの田代富雄がいます。今でも現役時代の活躍が語られる人物たちと同年代というわけです。

近年の映像を確認しても、非常に若々しく、ダイナミックな投球フォームとなっています。65歳という年齢になって、しっかりとした球を投げられるのは現役引退後も練習を続けていたからでしょう。元プロ野球選手として、若い世代にしっかりと指導できるハツラツさを感じる人物です。

木田勇の現在の活動を調査

信濃グランセローズで監督を経験してからは、どういった活動をしていたのでしょうか?その後の現在の経歴としては、2014年にアサヒ産業株式会社の介護部門である、アサヒトラストの女子硬式野球部の監督を務めています。また、2018年6月8日にセ・パ交流戦のイベントで投手として登板し、高木豊から空振り三振を奪っています。

現在は現役引退

木田勇は現在は現役を引退しています。1990年まで11年間プロ野球選手として活躍しました。最期の球団は中日ドラゴンズに移籍して、一年目で引退を決意しています。日本ハムファイターズ、大洋ホエールズ、中日ドラゴンズの3つのチームで活躍したといえるでしょう。

木田勇投手の引退のその後は?

プロ野球選手を引退した後に、その選手がどういった経歴を歩むかというのは興味深いことです。しかし、プロ野球選手のその後というのは簡単なものではありません。指導者や解説者になれるのはごく一部であり、野球とはまったく関係ない仕事に就くことがあるそうです。木田勇の場合は、引退後にどういった経歴を歩んだか紹介します。

1990年に木田勇投手現役引退

木田勇は1990年に現役を引退しています。現役を引退して指導者になる人はいますが、木田勇の場合は一度プロ野球の世界から離れるという決断をしたようです。ただし、自分を育ててくれた日本ハムファイターズなどに対する愛情は変わっておらず、恩返しをしたいという気持ちがありました。そのため日本ハムファイターズのOB会の会長も務めています。

引退のその後はサラリーマン生活

現役を引退したとき、木田勇は36歳という年齢でした。年齢的にはまだまだ働き盛りだったこともあり、一般企業でサラリーマン生活を送ることを決断しました。プロ野球選手がサラリーマンとして生活することは、大きな決断だったといえるでしょう。

引退のその後は川崎市の印刷会社セイブンドーに勤務

木田勇が勤務していた企業は、神奈川県川崎市にある印刷会社セイブンドーです。総合印刷物製造及び販売がメインの事業内容となっています。企画や編集、デザインなどを行っており、カタログやパンフレット印刷にも携わる企業です。木田勇がどういった部門に携わっていたかは不明でした。

会社退職のその後は野球関係に貢献?

一般企業で働きながら、日本ハムファイターズOB会の会長を務めた木田勇。その後もプロ野球の始球式に登板したり、スタンドで観戦したりしていたそうです。その後の経歴としては、サラリーマンを退職し、デイリースポーツで野球評論家として活動しています。

その後は監督業や解説などで活躍

野球評論家として活動しながら、実際にプレーする気持ちも変わっておらず、プロ野球マスターズリーグに参加しています。チームに参加するために3度のセレクション挑戦に挑んでいます。2006年に日本ハムファイターズがプレーオフに進出した際は、二軍の鎌ヶ谷で行われたイベントにゲスト出演しています。

木田勇は2007年に、北信越BCリーグの信濃グランセローズの監督に就任しました。しかし、チームは4チーム中3位となりました。2年目はチーム数が増えて地区制になり、前後期を通じて最下位居でした。木田勇はこの責任を取って、2008年に監督を退任しています。

その後、アサヒ産業株式のアサヒトラストの女子硬式野球部の監督を務めるなど、現在も野球に携わり続けています。プロ野球選手として活躍し、サラリーマンを経験した上で改めて野球に携わっていたといえるでしょう。木田勇の野球に対する強い愛情を感じる経歴といえるかもしれません。

木田勇投手の現役時代の成績

木田勇はプロ野球選手を引退後も、野球に携わっていたことが分かりました。改めて、木田勇が現役時代にどういった成績を残したか紹介します。ルーキーイヤーからの魅力的な活躍に注目しましょう。

現役時代の成績①日本ハム

1980年に日本ハムファイターズに入団した木田勇は、オープン戦で2勝するという順調な滑り出しでした。シーズンが開始されると、開幕2戦目に先発出場し、完投勝利に輝きました。4月は防御率0.79で4勝0敗と負け無しだったのです。その結果から月間MVPも受賞しています。

その後、名投手である江夏豊に並ぶ23投球回無失点の日本プロ野球タイ記録も樹立しました。その他にも毎回奪三振をシーズン3度記録しており、こちらは江川卓と並ぶ記録です。当時は現在の野球と違って、投手の役割分担が明確化されておらず、先発だけでなくリリーフ登板をする選手が多くいました。

木田勇も先発投手だけでなく、リリーフ登板で阪急ブレーブスの福本豊、簑田浩二、加藤秀司から連続三振を奪っています。当時の阪急ブレーブスを代表する選手相手に、新人投手が大活躍した場面でした。このとき木田勇は、三振と共にガッツポーズを取っています。これは投手が三振を奪ったときに、ガッツポーズをする元祖になったと考えられています。

順調に勝ち星を積み上げていく木田勇ですが、同時に被本塁打率が上がっており、プロの厳しい洗礼を受けたのです。結果的に優勝がかかった近鉄との「10.7決戦」においても、リリーフで3失点しています。

結果的にチームは破れて優勝を逃しています。しかし、最多勝・最優秀防御率・最高勝率、22勝8敗4セーブ、防御率2.28という素晴らしいルーキーイヤーでした。

現役時代の成績②横浜大洋ホエールズ

日本ハムファイターズで6年間プレイした後、1986年に交換トレードで横浜大洋ホエールズに移籍しています。移籍したシーズンは8勝を記録したものの、以降の3シーズンで合計2勝という厳しい結果に終わったのです。特に1989年には広島東洋カープの高橋慶彦、正田耕三、ウェイド・ロードンから3者連続本塁打を打たれるという不名誉な記録があります。

現役時代の成績③中日ドラゴンズ

1990年に交換トレードで中日ドラゴンズに移籍したものの、18登板で防御率7.71で0勝でした。この結果を受けて現役引退を決意しています。その後の経歴は先ほど紹介したように、印刷会社勤務となりました。

最多投球数209球を記録する木田勇投手

様々な記録を残した木田勇ですが、特に驚きの記録が投球数です。1983年に西武ライオンズ戦で記録した、1試合9イニング最多投球数209はプロ野球記録となっています。ルーキーイヤーの1980年も投球回が253イニングとなっており、投げ続けた選手といえるでしょう。

木田勇投手の野球経歴

木田勇の現役時代の活躍を紹介しましたが、プロ入りするまでの経歴も確認しましょう。また、木田勇がプロ入りしてからの好成績ではなく、厳しい経験をしたというエピソードも紹介します。

野球経歴①横浜第一商業高等学校時代から活躍

木田勇は、横浜一商高(現在の横浜商科大学高等学校)に入学しています。1972年の夏の選手権県大会で準決勝に進み、延長11回で惜しくも敗退しています。その後、社会人野球の日本鋼管に進んでいます。当初はリリーフだったものの、1978年にエースピッチャーとなり、準優勝に輝きました。

野球経歴②1980年よりプロ入り

冒頭で紹介したように1978年のドラフト会議では、両親の健康を気遣って在京球団を希望し、広島東洋カープの指名を断っています。翌年に在京球団ではない日本ハムファイターズから指名を受けたものの、入団を決意しています。

ちなみに、この入団のときの契約でファンから厳しくバッシングを受けています。それは契約金を現金の代わりに土地をもらう、という形にしようとしたためです。これは契約金の場合は多額の税金が引かれてしまうため、土地としてもらうほうが堅実だという考えでした。しかし、ファンからは法外な要求だと受け取られたのです。

現役時代は伸び悩む時期も

木田勇はルーキーイヤーに輝かしい記録を残したものの、現役時代は伸び悩む時期もありました。その原因と言われているのが、2年目に対する準備不足でした。当時の日本ハムファイターズの監督である大沢啓二監督は、シーズンオフの木田勇の態度に疑問を感じることがあったようです。

それは入団当初の謙虚な姿が消えていたこと、練習よりもテレビや雑誌の取材に時間を費やしていたことでした。ルーキーイヤーに253投球回を経験していたことから、シーズンオフはしっかりと休息を取る必要があったといえるでしょう。

木田勇は結果的に、2年目のジンクスに苦しみました。2年目の1981年の開幕2戦目で先発登板し、完投勝利となったものの、9失点という成績でした。シーズンオフの走り込み不足がフォームを崩す原因となっていたのです。武器だった直球は伸びず、変化球主体となったものの、軽い球は失点につながりました。

結果的に木田勇は4試合連続で敗戦投手も経験しており、2年目は10勝10敗に終わっています。プレーオフでは第5戦で勝利投手となり、日本ハムファイターズの19年ぶりの優勝に貢献しています。しかし、以降は目立った成績が残せず、交換トレードでチームを去ったのです。一年目以上の成績を残せなかったのは悔やまれるでしょう。

野球経歴③プロ入り後は多くの賞を獲得

木田勇は2年目のジンクスに苦しんだものの、多くの記録や賞に輝いています。最多勝利、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率、最優秀選手、新人王など様々な記録を受賞しました。また、先程紹介した1試合9イニング最多投球数209はプロ野球記録として残っています。

木田勇の活躍していた頃は、パ・リーグ自体が打者有利だったと考えられています。ルーキーイヤーもパ・リーグ3チームがシーズン200本塁打以上で、リーグ全体で1196本塁打でした。いわゆる「飛ぶ球」だった可能性があり、投手不利な時期だったといえるでしょう。

その中で被本塁打率は高かったものの、木田勇の成績は十分だったといえます。2年目に対する調整が違えば、さらに良い成績を残せた可能性はあります。そういった経験も含めて、木田勇は現在も野球に関する活動を続けていると考えられるでしょう。今後も指導者として、プロ野球に関わる可能性もあります。

木田勇投手の現在は引退しサラリーマン生活を経て監督や解説業

日本ハムファイターズで活躍した木田勇投手の現在について紹介しました。11年間の現役時代を終えた後は、サラリーマン生活を経て監督や解説業をしていたのです。また、現在も野球に関わるイベントに出演しており、変わらない当時の姿を見せてくれています。今後も木田勇の活動に注目しましょう。

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この記事のライター
浅倉恭介
ギターと野球と料理が好き。犬が飼いたい! もともとは接客業界で働いてました その後は保育業界に。 ロ...

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