【校門圧死事件】元教諭の細井敏彦の現在!事件の概要やその後など真相に迫る

1990年に起こった校門圧死事件は、当時学校で行われていたブラック校則を浮き彫りにさせる事件でした。そんな校門圧死事件の概要や被害者の石田遼子さんについてご紹介します。また加害者である元教諭の細井敏彦さんの現在や事件について語った本について迫りましょう。

【校門圧死事件】元教諭の細井敏彦の現在!事件の概要やその後など真相に迫るのイメージ

目次

  1. 1校門圧死事件の概要
  2. 2校門圧死事件の裁判と判決
  3. 3校門圧死事件のその後
  4. 4校門圧死事件の加害者元教諭(細井敏彦)の現在
  5. 5校門圧死事件はブラック校則が起こした悲しい事件

校門圧死事件の概要

神戸高塚高校校門圧死事件は当時多くの方々に衝撃を与えました。女子高校生が門扉に挟まれて亡くなるという悲惨な事件が起こったのは、学校内での厳しい校則が関係しています。

今回はそんな神戸高塚高校校門圧死事件の概要や事件が起こった要因について詳しく迫っていきましょう。また加害者で元教諭の細井敏彦さんの現在もご紹介していきます。まずは校門圧死事件の詳細な概要や、事件が起こった理由の1つである厳しい校則に迫りましょう。

1990年に神戸高塚高校で起きた死亡事件

神戸高塚高校校門圧死事件は1990年7月6日に起こりました。事件当日は期末考査が行われる日で、3名の教諭が校門で遅刻指導を行っています。校門を閉める8時30分前からハンドマイクでカウントダウンをはじめ、時間になると勢いよく門扉を閉めるのが恒例でした。

事件の日もいつもと同じように門扉を閉めようとしたところ被害者の女子生徒が走り込み、門扉と門柱の間に頭を挟まれ頭蓋骨粉砕骨折などの重傷を負い、その後亡くなっています。

神戸高塚高校とは

事件が起きた兵庫県立神戸高塚高校は1984年に設立された男女共学校で、普通科のみを設置しています。事件当時の神戸高塚高校は、日本で5校しかない「研究指定校」でした。

「研究指定校」とは新しい試みを研究する学校として指定されることで、学校安全など神戸高塚高校は学校安全に対する「研究指定校」だったようです。神戸高塚高校が以前から行っていた全教員による校門や通学路での指導が高く評価され、指定校に選ばれたのでしょう。

被害者は女子生徒の石田遼子さん(当時15歳)

校門圧死事件で亡くなったのは、当時15歳だった石田遼子さんです。事件当日は門扉が閉まる8時30分ぎりぎりに校門付近に到着したようで、閉まる門扉に走り込んでいきました。

その後門扉と門柱に頭を挟まれ、頭蓋骨粉砕骨折などの重傷を負い搬送先の病院で亡くなっています。事件現場には石田遼子さん以外の生徒もおり、門扉を押し戻すなど救助にあたったようです。なお教諭は周囲の生徒の悲鳴などによって初めて事件に気付きました。

加害者は元教諭の細井敏彦

神戸高塚高校校門圧死事件の加害者は、当時生活指導などを担当していた教諭の細井敏彦さんです。校門付近で行われていた遅刻指導は3人1組の教諭によって実施されていたようですが、石田遼子さんが亡くなる原因となった門扉を閉めたのが細井敏彦さんでした。

細井敏彦さんは過去にも厳しい指導を行っており、事件以前にも生徒の鞄などを挟んだことがあったようです。そのため生徒の列が途切れた際に門扉を閉めるようにしていました。

細井敏彦の厳しい生活指導

校門圧死事件で加害者となった細井敏彦さんは、当時神戸高塚高校で生活指導を担当していました。そのため普段から遅刻に対しては厳しく、同校では遅刻者に対して柔軟体操を行うよう命じたり、校庭を2周走らせたりするなど独自の厳しい罰則を設けていたようです。

この独自の罰則は「8時35分から行われる出席確認に間に合わないようにするためだった」と明かされており、遅刻者に対してかなり厳しい対応がとられていたことが分かります。

遅刻寸前に登校した石田遼子さんが校門に挟まれ死亡

1990年7月6日に起こった神戸高塚高校校門圧死事件では、当時15歳だった石田遼子さんの尊い命が奪われています。事件は色々な要因が重なったことで起こったと言えるでしょう。

事件当日は期末考査の日で、被害者の石田遼子さんは遅刻するわけにはいかないという思いから門扉に走り込んだと推測されます。また加害者の細井敏彦さんは学校内の独自のルールを厳守しようとし、柔軟な考えができなかったばかりに事件が起こってしまいました。

校門圧死事件の裁判と判決

校門圧死事件の概要や被害者の石田遼子さん、加害者の細井敏彦さんについてチェックしましたが、ここからは校門圧死事件の裁判や判決内容について詳しくご紹介していきます。

当時15歳だった石田遼子さんの尊い命が奪われた校門圧死事件は、連日ニュースで取り上げられ世間から大きな注目を集めていました。そこでここからは事件後に行われた裁判の内容や判決についてご紹介します。また判決による学校への影響についても迫りましょう。

元教諭の細井敏彦は裁判で無罪を主張

刑事裁判で細井敏彦さんは、「門扉の閉鎖は教諭3名で行う共同作業で安全な方法。生徒が頭から走り込んでくるのは予測不可能」だと語り過失責任はないと無罪を主張しています。

また「安全策なく教諭に校門指導をさせた学校側に責任がある」とし、学校側や兵庫県教育委員会、文部省の責任を問うべきだと主張しました。以前から生徒の鞄を挟むなどしていたため、事件が起こる前に学校全体で校門指導の見直しを行うべきだったのかもしれません。

ちなみに事件から数日経過した7月21には、兵庫県警によって実況見分が行われています。当時神戸高塚高校に設置されていたのは高さ1.5m、重さ230kgほどの門扉でした。実況見分で門扉は、ヘルメットが割れるほどの勢いで閉鎖されていたことが分かりました。

細井敏彦に禁錮1年執行猶予3年の判決

1993年2月10日に事件の加害者となった細井敏彦さんは、神戸地方裁判所によって禁錮1年、執行猶予3年の有罪判決を言い渡されています。なお判決後に細井敏彦さんは「判決には不服だが、自身の家族の心労を考え控訴しない」と語っており、刑が確定しました。

なお裁判所は「生徒が制裁を避けるために門に走り込むことは予測できた」としています。学校側が生徒の気持ちに寄り添えば、こうした悲惨な事件は起こらなかったことでしょう。

有罪判決で教員免許も失効

神戸高塚高校校門圧死事件で有罪が確定した細井敏彦さんは、教員免許を失効しています。これほど大きく悲惨な事件を起こしているため、教員免許の失効は仕方ないことでしょう。

なお細井敏彦さんは校門圧死事件によって兵庫県教育委員会から懲戒免職処分を受けており、懲戒免職不服申立をしていました。しかし有罪が確定したことで不服申立の審理は中止になっています。この事件で学校側や高校のある兵庫県もさまざまな影響を受けました。

事件当時の神戸高塚高校校長と教頭にも処分が

神戸高塚高校校門圧死事件では、門扉を閉めた教諭以外にも処分が下りました。当時の校長は管理責任を問われ戒告、教頭と教育長は訓告、教育次長2名を厳重注意としています。

ちなみに同校で門扉を閉めることを提案した教諭や、生活指導部長への処分はなかったようです。なお事件後に神戸高塚高校の校長は辞表を提出していたため、9月から新校長が就任しています。この事件に悲惨さは、現在も多くの方の心に残っていることでしょう。

校門圧死事件のその後

神戸高塚高校校門圧死事件の裁判や判決、関係者への処分についてチェックしてきましたが、ここからは神戸高塚高校校門圧死事件のその後について詳しくご紹介していきます。

石田遼子さんの命が奪われた神戸高塚高校校門圧死事件は、加害者の細井敏彦さんの有罪判決や関係者の処分決定によってニュースで取り上げられることも少なくなりました。しかし事件後にも学校側にいくつか問題があり、近隣住民らは反発の声をあげていたようです。

事件後には学校側の録音テープ問題騒動?

神戸高塚高校校門圧死事件が起こった数日後には、同校の保護者に向けた全体保護者が開催されています。保護者会を録音したデータには「保護者会は従来から一切公開していないはず。マスコミの方に流れて生徒がひどく困っている」という発言が残されていました。

また「要望がある場合にはもう1回来てもらい、そこで録音を聞いてもらえると思う」という発言もあったようです。しかし後に学校側がテープを処分したことが判明しています。

学校がある兵庫県側は「録音テープは公開請求の対処にならない。全体保護者会の会議録は初めから存在しない」と説明していたようです。結局学校側から録音テープが公開されることはなく、PTA側が保管していたテープが事件から8年の月日を経て公開されました。

石田遼子さんが死亡した門扉の撤去は?

石田遼子さんの命を奪った高校の門扉は、1993年7月頃に撤去されています。学校側は事件直後に撤去を考えていましたが、事件の風化を図ろうとする学校の姿勢に保護者らが反発しました。また「判決前の撤去は好ましくない」という裁判所の意見も参考にしたようです。

その後加害者の細井敏彦さんの判決が確定したことで、門扉の撤去を進めました。なお門扉撤去はPTAや保護者への説明がないまま決定したため、不満の声が多々上がっています。

神戸高塚高校側から遺族に損害賠償金の支払い

校門圧死事件で被害者となった石田遼子さんが通っていた神戸高塚高校側は、事件から約4ヶ月の11月に安全管理上の過失を認めています。同校がある兵庫県は、石田遼子さんの遺族に対して損害賠償金として6000万円を支払うことを決定し示談が成立したようです。

その後は厳しすぎるブラック校則の見直しも

神戸高塚高校校門圧死事件では、学校独自の厳しいルールが問題となりました。遅刻指導では8時30分が近づくとハンドマイクなどでカウントダウンを始め、時間が来ると容赦なく門扉を閉めていたため生徒の鞄やスカートが挟まるという出来事が事件前にも起きています。

また遅刻以外にも生徒を家畜呼ばわりする言葉の暴力や、生理の生徒も水泳の授業を受けさせるなどさまざまな問題がありました。教育者としてあるまじき行為だと言えるでしょう。

ブラック校則とは

神戸高塚高校が独自に設けていたことで話題となったブラック校則とは、理不尽で守る必要性が問われる校則を意味します。頭髪の長さや下着の色の指定など多様性を求める社会の動きとは真逆のもので、校則を破ると大きなペナルティが科せられることもあるようです。

人権侵害などの問題もあるブラック校則は、現在でも一部の学校で設けられています。またブラック校則は明るみに出る機会がなかなかないため、把握しきれないのが現状でしょう。

現在のブラック校則事情

現在でもブラック校則は日本各地で問題になっています。2017年には大阪府立懐風館高等学校の生徒が、地毛の茶髪を黒に染めるように強要されたことで注目を集めました。

この件で染髪を強要された生徒は、茶髪を理由に文化祭や修学旅行などの学校行事への参加を拒否されています。なお生徒側は後に学校のある大阪府に対して約220万円の損害賠償を請求しています。地毛の色を変えることはできないため、不当な要求だと言えるでしょう。

また過去に行われたアンケートでは、野球部員の髪型について丸刈りと決めている学校が2003年よりも近年の方が高いという結果も出ています。野球部といえば丸刈りという一部の人にとっては当たり前なことも、強要するとブラック校則になりかねないのです。

このようにブラック校則は現在も無くなっていないことが分かります。人権や多様性を尊重しようとする世の中の動きと、教育現場のルールは大きく異なっているようです。

校門圧死事件の加害者元教諭(細井敏彦)の現在

神戸高塚高校校門圧死事件のその後やブラック校則についてチェックしましたが、ここからは校門圧死事件の加害者である細井敏彦さんの現在について詳しくご紹介していきます。

石田遼子さんの命を直接的に奪ってしまった加害者の細井敏彦さんですが、事件後に本を出版したことで話題になりました。そこでここからは細井敏彦さんの現在について迫っていきましょう。また事件直後に出版した本の内容や関連本についても併せてご紹介します。

加害者である細井敏彦の現在にも注目が

神戸高塚高校校門圧死事件の加害者である細井敏彦さんの現在ですが、詳細な情報は出回っていません。教員免許を失効していることから、別の仕事に就いていることでしょう。

細井敏彦は本『校門の時計だけが知っている-私の[校門圧死事件]』を出版

加害者の細井敏彦さんは、事件後の1993年4月に事件を題材にした本を出版しました。タイトルは『校門の時計だけが知っている-私の[校門圧死事件]』で、自身が持っていた当時の意見や周囲の状況をまとめた本となっています。

本には「校門を閉鎖し生徒を取り締まることは正しいと信じていた。しかし生徒の命が奪われ、他に方法はなかったのかと考えさせられる」という趣旨の内容が記されていました。

細井敏彦の著書以外の関連本も調査

神戸高塚高校校門圧死事件に関連する本は、細井敏彦さんの『校門の時計だけが知っている-私の[校門圧死事件]』以外にもいくつかあります。生徒への取材によって作られた『先生、その門を閉めないで-告発・兵庫県立神戸高塚高校圧死事件-』もその1つです。

また『校門を閉めたのは教師か-神戸高塚高校校門圧殺事件』は、どちらかの立場に立つのではなく中立的な視点から校門圧死事件について書いた本となっています。

校門圧死事件はブラック校則が起こした悲しい事件

1990年7月の神戸高塚高校校門圧死事件は、同校が独自に設けていたブラック校則によって起きた悲惨な事件だと言えるでしょう。遅刻を取り締まるのは決して悪いことではありませんが、やり方や指導方法が違えばこうした事件は起こらなかったのかもしれません。

現在も一部の学校で実施されているブラック校則。学校も多様性を重視する世間の流れを汲み取り、少しずつでもブラック校則を無くし良い方向に変わっていく必要があるでしょう。

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