【桶川ストーカー事件】犯人逮捕までの経緯!警察の記者会見や遺族のその後なども調査

2000年に制定されたストーカー規制法。この規制が出来たきっかけとなったのが『桶川ストーカー事件』でした。女子大生が元交際相手からストーカー行為を受け挙句の果てに殺害された事件。どうしてこの事件は起こったのでしょうか?『桶川ストーカー事件』を調査してみました。

【桶川ストーカー事件】犯人逮捕までの経緯!警察の記者会見や遺族のその後なども調査のイメージ

目次

  1. 1【桶川ストーカー事件】の概要
  2. 2桶川ストーカー事件が起こるまでの内容
  3. 3桶川ストーカー事件の犯人逮捕までの経緯
  4. 4桶川ストーカー事件の裁判と警察の記者会見
  5. 5桶川ストーカー事件のその後
  6. 6桶川ストーカー事件は警察の捜査怠慢も関係した悲しい事件

【桶川ストーカー事件】の概要

ストーカーとはつきまといする人を指し、これによって相手を怖がらせたり悩ませたりします。エスカレートすると、桶川ストーカー事件のように相手を殺害するという行動も現れます。現在は、ストーカー規制法がありある程度被害者を守ることが出来ますが、桶川ストーカー事件当時にはまだこのストーカー規制法はありませんでした。

夢や希望に満ちた女子大生の命が奪われた桶川ストーカー事件。事件から約13年経った2012年に人気番組『ザ!世界仰天ニュース』で事件を再現し放送されたほど、世間では関心の高い事件でした。桶川ストーカー事件は、一体どんな事件だったのでしょうか?桶川ストーカー事件の概要をご紹介します。

1999年に桶川市で起きた女子大生殺人事件

女子大生が刺殺された桶川ストーカー事件は、1999年(平成11年)10月26日午後12時55分頃、埼玉県桶川市のJR東日本高崎線桶川駅西口の前にあるスーパー「おけがわマイン」の脇の路上で起こりました。

被害者は猪野詩織さん(当時21歳)

被害者は、当時21歳で跡見学園女子大学2年生の猪野詩織さんでした。猪野詩織さんは、家族思いの優しい女性だったと言います。父親によると、幼い頃には出勤する父親を玄関まで見送り「ハンカチ持った?」と気遣ってくれたそうです。また、2人いる弟の面倒もよく見ていたそうです。

犯人は1人ではなかった

当初、この事件は通り魔的な事件として見られていたようです。しかし、捜査が進むにつれてある男が浮上してきました。それが、元交際相手の小松和人です。しかし、目撃者の犯人像とは異なっていたため、犯人とすぐには断定することは出来ませんでした。

また、後に触れることになりますが、この桶川ストーカー事件を担当したのは埼玉県警上尾署。上尾署は、猪野詩織さんがストーカー被害の届けを出したにも関わらず、捜査らしい捜査は行わず常に傲慢な態度だったそうです。犯人逮捕に向けて全力で動いていたかどうかも疑問が残ります。

事件から約8週間ほどたった12月19日、最初に実行犯だった久保田祥史が逮捕されました。その翌日には3人が殺人容疑で逮捕。また、12月16日には、8人が名誉毀損容疑で逮捕されました。

元交際相手でストーカーの小松和人

犯人が1人だけではなかった桶川ストーカー事件。逮捕された犯人達を、犯行の役割と共に詳しく見てまいりましょう。まずは、元交際相手でずっと猪野詩織さんに執拗なストーカー行為をしていた小松和人です。小松和人は、風俗店の経営者でしたが、猪野詩織さんには職業を車の販売をしている青年実業家と嘘を付いていたそうです。

小松和人27歳は桶川ストーカー事件の主犯ですが、実際には猪野詩織さんを殺害はしていません。お金を使って犯人達を雇い猪野詩織さんを殺害したのです。事件当日、小松和人はアリバイ作りの為、沖縄に行っていったそうです。

小松和人は、兄の小松武史とは事件当日に携帯で13回も連絡を取り合っていたことが後の捜査で分かりました。事件の経過を兄から報告を受けていたのでしょうか?沖縄で小松和人とずっと一緒にいた人によると、興奮したりオロオロする様子はなく淡々としていたそうです。

小松武史(小松和人の兄)

小松武史は、小松和人の兄で事件当時32歳でした。小松和人と一緒に風俗店を経営していたようです。また、調べてみると風俗店経営と同時に、元消防庁の職員という情報もありました。

小松武史は、弟の和人から猪野詩織さんの殺害を指示され2,000万円受け取ったそうです。そしてこの2,000万円を使って、久保田祥史、伊藤嘉孝、川上聡を雇い事件を計画しました。

久保田祥史(実行犯)

実際に猪野詩織さんを殺害した犯人が久保田祥史です。久保田祥史は、元暴力団員で小松武史が経営する風俗店の店長だったそうです。事件当時は34歳で、1,000万の報酬を受け取っていたと見られます。

伊藤嘉孝(見張り役)

おそらく小松武史が経営する風俗店の従業員であった伊藤嘉孝当時32歳は、見張り役として事件に関わっていました。伊藤嘉孝は見張り役として、400万円手に入れたそうです。

川上聡(運転手)

伊藤嘉孝同様に風俗店従業員と見られる川上聡は、当時31歳で役目は運転手でした。実行犯の久保田祥史を現場まで送り、猪野詩織さんを刺した後の久保田祥史を拾っています。

犯行を行う前には、猪野詩織さんを殺害する気はなかったようで、「大事にならないよう太ももを狙え」と久保田祥史に指示していたようです。川上聡も運転手として、兄武史から400万円受け取っています。

桶川ストーカー事件が起こるまでの内容

被害者は、何故小松和人から執拗なストーカー行為を受けるようになったのでしょうか?被害者と小松和人との出会いから事件までの流れを調査しました。

被害者と犯人の1人(小松和人)の出会いと破局

被害者は友人と大宮駅東口にある大宮南銀座にあるゲームセンターに遊びに行き、そこで小松和人と出会ったそうです。1999年1月の事でした。この時、小松和人は名前や職業を偽っていました。2人は交際を始め、週1ペースで食事やドライブに出かけていました。デートの時、小松和人は度々高価なブランド品を被害者にプレゼントしたそうです。

被害者は何か引っかかり、受け取りを断ると小松和人は逆上したと言います。交際に不安を感じ始めた頃、小松和人の車から本人名義のクレジットカードを発見し、被害者は小松和人が偽名を使っていたことを知ります。

その後も、被害者は小松和人と会っていますが、小松和人の異常な行動は段々とエスカレートし、被害者は不安から恐怖を感じるようになりました。そして3月の終わりに被害者は、意を決し小松和人に別れを切り出したそうです。この時、被害者は家族と友人宛に遺書を書いていたとか。それほど身の危険を感じていたのでしょう。

しかし小松和人が簡単に別れてくれる訳がありません。「別れたら家族に危害を与えると」匂わせ、被害者に交際を継続するよう強要したと言います。恐怖と不安で一杯になりながらも、被害者は家族に相談することが出来ず小松和人の言いなりになっていました。しかし疲れ切った被害者は、遂に6月14日小松和人に別れを言い放ったのです。

小松和人は別れを切り出されストーカーに

別れを告げられた小松和人は、兄の武史ともう1人の男性と3人で被害者の自宅に押しかけ、被害者と母親に1時間に渡り「お前の娘に貢ぐために会社の金を横領した」や「娘のために精神が病んでしまった」と有る事無い事をでっち上げ押し迫ったそうです。

父親が帰宅しさらに彼らの言い分は続き、その後帰った行きました。しかし、被害者への本当のストーカー行為はこの後からだったのです。

小松和人の異常なビラ配りや嫌がらせ行為とは

小松和人がとった嫌がらせ行為とはどのようなものだったのでしょうか?小松和人はまず、無言電話や自宅周辺をウロウロしたと言います。そしてその行為は段々とエスカレートし、被害者の写真が入ったビラを自宅周辺、学校、父親の勤務先などにバラ撒いたそうです。そのビラには、写真だけでなく誹謗中傷の言葉もたくさん書かれていたそうです。

また別の日には、「大人の男性募集」と書かれたビラに被害者の写真、氏名、電話番号などを書き、東京都板橋区の高島平団地の郵便受けに入れて回ったそうです。被害者の携帯には、それを見た複数の男性から電話が掛かってきたと言います。

被害者はストーカー被害を警察(上尾署)に相談

被害者と両親は、小松和人含む3人の男が自宅を訪れた翌日、ビラを撒かれた当日、そしてその2日後と何度も上尾署に足を運び、被害状況を訴えていました。

警察(上尾署)は捜査を放置

再三に渡り上尾署に被害を訴えに行った被害者家族ですが、警察は親身になって相談に乗ってくれることは一度もありませんでした。それどころか面倒くさそうに対応したそうです。また、父親の勤務先でバラ撒かれたビラをみて、「これはいい紙を使っているなぁ。手が込んでいる」と笑っていたそうです。

桶川ストーカー事件の犯人逮捕までの経緯

被害者と小松和人との事件前の出来事に続き、ここからは桶川ストーカー事件の事件発生から犯人逮捕までの経緯を見てまいりましょう。

桶川駅西口前「マイン」前の路上で被害者刺される

桶川ストーカー事件は、埼玉県桶川市のJR桶川駅西口にあるスーパー「おけがわマイン」の脇の路上で午後12時55分頃発生しました。被害者は、その日学校に向かうために駅前の自転車置場に自転車を止めていたところでした。

そこに犯人が現れ、ナイフで被害者の左胸と脇腹を刺し逃走したそうです。被害者はすぐに病院に運ばれましたが、午後1時30分頃出血多量によるショック死のため亡くなりました。

実行犯である久保田祥史が逃走

被害者を刺し、すぐさま久保田祥史は逃走したと言います。この時、目撃者に「ひったくり!」と叫ばれ、付近にいた男性に追いかけられています。しかし、残念ながら久保田祥史を取り押さえる事は出来ませんでした。

その後犯人達は、事前に決めていた集合場所を目指しますが辿り着く事が出来ず、実行犯の久保田祥史は運転手の川上聡に拾われ逃げ切っています。車の中で久保田祥史は興奮状態にあり、「俺は何をやってんだ」、「大丈夫かな、死んだんじゃないか」などと言っていたそうです。

犯人を割り出したのは『FOCUS』清水潔記者

被害者がストーカー被害を提出した際にも傲慢で怠慢だった埼玉県警上尾署。事件が発生しても、重い腰をすぐに上げることはありませんでした。それでは、どうやって犯人逮捕まで漕ぎ着けたのでしょうか?それは、雑誌「FOCUS」の1人のジャーナリスト・清水潔氏の地道な取材結果でした。

清水潔氏は、被害者の友人が「詩織は小松と警察に殺された」という言葉を知り、独自に犯人を追いかけていました。清水潔氏は、元交際相手の小松和人の周辺を徹底的に調査し、目撃者の証言から実行犯の久保田祥史を割り出したのです。

その後ようやく警察が捜査開始で久保田祥史を逮捕

実行犯・久保田祥史を見つけた清水潔氏は、久保田祥史と川上聡の2人を写真に収めることに成功しました。清水潔氏は、その写真を知人の記者に頼み警察に提出してもらいます。そしてやっと重い腰を上げ、上尾署は12月19日久保田祥史を逮捕するのでした。

その後は続けて犯人グループを逮捕

その後上尾署は、久保田祥史の逮捕の翌日小松武史、川上聡、伊藤嘉孝の3人を逮捕しました。さらに12月16日には、名誉毀損容疑で8人を逮捕しています。しかし、この時点で主犯の小松和人の逮捕には至っていませんでした。

年が明けた2000年1月12日雑誌「FOCUS」には、「桶川女子大生刺殺『主犯』を捕まえない埼玉県警『無気力捜査』事件前の対応から問題」というタイトルで上尾署の一連の対応を書いた記事が掲載され、世間の注目を浴びました。そして、その後上尾署は主犯の小松和人を全国指名手配したそうです。

被害者の元交際相手の小松和人は自殺

事件発生時には、アリバイ作りのため沖縄に滞在していた元交際相手で事件の主犯格の小松和人。その後、小松和人は現金約1億円を持って沖縄から北海道に移動していました。そして、2000年1月27日に、北海道の屈斜路湖で水死体となって発見されました。周辺に小松和人のバックがあり、その中から遺書が見つかったため自殺と断定されました。

小松和人の2通の遺書とは

小松和人が残した遺書は2通ありました。1通は遺体と一緒に見つかっています。そしてもう1通は郵送で、自身の実家に郵送していました。両方の遺書には、被害者、その家族、そしてマスコミへの恨み辛みや怒りの言葉が書かれていたそうです。

そして、冤罪であることも主張していたそうです。両親に向けた遺書の中には、自分が入っていた生命保険の保険金を老後資金に当ててほしい事も書かれていたそうです。

桶川ストーカー事件の裁判と警察の記者会見

桶川ストーカー事件は、事件自体は12人の逮捕者と主犯の自殺で解決となっています。しかし、桶川ストーカー事件には残された問題がたくさんありました。ここでは裁判判決や埼玉県警記者会見など桶川ストーカー事件のその後を追ってみました。

桶川ストーカー事件の裁判と判決

桶川ストーカー事件では合計12人の人物が逮捕されていますが、犯行の中心となった人物達にはどのような判決が下されたのでしょか?詳しく見てまいりましょう。

まず実行犯の久保田祥史には懲役18年、見張り役の伊藤嘉孝には懲役15年の実刑判決が2001年7月17日下されています。2002年6月27日には、運転手だった川上聡に懲役15年が言い渡されました。

そして、犯行グループの中心となった小松和人の兄・小松武史には2002年12月25日に無期懲役が下っています。しかし小松武史は、殺意を否定し控訴しました。2005年12月20日、東京高裁はこれを棄却しています。小松武史は諦めることなく即日上告していますが、最高裁でも棄却され無期懲役が確定しました。

桶川ストーカー事件のきっかけとなった小松和人の罪は、被疑者死亡のため起訴猶予処分となり罪を問われることはありませんでした。

警察の記者会見にも注目が

埼玉県警は、4月6日に県警本部長の記者会見を開きました。県警は記者会見を開くにあたって県警主導で内部調査を行っており、その結果を「埼玉県桶川市に於ける女子大生殺人事件をめぐる調査報告書」として発表していました。

その報告書では、被害者の調書を上尾署署員が勝手に書き換えていたことや、証拠品の取り扱いについて嘘の報告書を作成していたことなどが書かれていたそうです。

桶川ストーカー事件では、事件当日の上尾署署員による笑いながらの記者会見が話題となっていました。そのため、埼玉県警本部長による記者会見にも注目が集まっていました。県警本部長は記者会見で何を語ったのでしょうか?まず、県警本部長は記者会見の冒頭で「桶川ストーカー事件は避けられた」と謝罪したそうです。

記者会見では嘘の報告書作成についても謝罪

県警本部長はまた、上尾署署員による被害者の調書改竄についても触れ記者会見で謝罪したそうです。その後、改竄に関わったとして上尾署刑事ニ課長、係長、課員の3人を懲戒免職処分としています。

記者会見その後は警察が被害者の遺族に謝罪

記者会見を終えた県警本部長は、被害者宅にも出向き遺族に謝罪したそうです。被害者の仏壇の前で手を合わせ、その後被害者の両親と向き合った時には、涙を流していたと言われています。

『ザ!世界仰天ニュース』でも放送され話題に

日本テレビのドキュメンタリバラエティー番組『ザ!世界仰天ニュース』。『ザ!世界仰天ニュース』では、過去に起こった凶悪な事件をドラマ風に再現し放送しています。今までに『ザ!世界仰天ニュース』で取り上げられた事件には、オウム真理教のサリン事件やジョンベネ殺害事件などがあります。

この人気番組『ザ!世界仰天ニュース』で、桶川ストーカー事件は取り上げられ2012年9月26日放送され話題となりました。その後2017年12月16日にも再放送されこの事件は再度注目を浴びることとなります。

『ザ!世界仰天ニュース』放送後は上尾署に対する批判

『ザ!世界仰天ニュース』で桶川ストーカー事件が再度取り上げられた後、ストーカー規制法が出来たきっかけとなった事件として当時生まれていなかった若者達の間でも話題となりました。

『ザ!世界仰天ニュース』で放送された後には、事件を担当した上尾署への批判が凄かったと言います。というのも『ザ!世界仰天ニュース』を見ると、警察の無能ぶりがまじまじと伝わったきたからでした。ネット上では、「被害者は警察に殺された!」というコメントも多くあったそうです。

桶川ストーカー事件のその後

『ザ!世界仰天ニュース』でも取り上げら全国的に注目された桶川ストーカー事件。事件のその後はどうなったのでしょうか?調査してみました。

遺族が損害賠償訴訟を起こし警察が豹変?

犯人グループは逮捕、元交際相手は自殺という結果で桶川ストーカー事件は終わったようにみえましたが、遺族の闘いはまだ続きました。2000年12月22日、遺族は埼玉県警を相手に1億1,000万の国家賠償請求訴訟を起こしました。

一度は警察の失態を認め記者会見まで開き被害者、家族、そして国民に謝罪の言葉を述べていた埼玉県警ですが、この訴訟をきっかけに態度を一転させ闘う姿勢をあらわにしました。

遺族が起こした訴訟の判決は?

遺族が起こした国家賠償請求訴訟は、2003年2月26日判決公判が開かれ、警察の怠慢さが認められ遺族に550万円の賠償金を支払うよう命じられました。しかし訴訟の焦点となった”捜査怠慢”と“被害者殺害”の因果関係は認めらなかったとのこと。

警察側と遺族側はこの判決を不服とし控訴しましたが、2005年に高裁で控訴を棄却。双方は上告しましたが、2006年最高裁で上告も棄却され判決が確定となりました。

清水潔記者が著書『桶川ストーカー殺人事件-遺言』を出版

怠慢で腐りきった警察に代わって犯人を追求した雑誌「FOCUS」のジャーナリスト・清水潔氏。清水潔氏は、その後桶川ストーカー事件を一冊の本にまとめています。『桶川ストーカー殺人事件-遺言』で、2004年に新潮文庫から出版されました。

桶川ストーカー事件は警察の捜査怠慢も関係した悲しい事件

2000年に制定されたストーカー規制法。この法律が出来たのは1999年に起こった桶川ストーカー事件がきっかけです。桶川ストーカー事件は、犯人グループがストーカー行為で被害者やその家族を苦しめ、挙句の果てに殺害したという極めて残虐な事件でした。しかし、被害者は当時、担当した怠慢で傲慢な警察からも醜い仕打ちを受けていました。

この事件を知らない若者は、『ザ!世界仰天ニュース』や様々な著書でこの事件を知ることとなり、犯人グループだけでなく警察に対しても強い怒りを感じたようです。この事件を教訓とし、ストーカー被害が理解されこの社会から無くなることを願うばかりです。

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nananomoe66

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