小野悦男の現在!生い立ちから冤罪判決まで!首都圏女性連続殺人事件とその後

1968年から1974年までの間に起きた首都圏女性連続殺人事件の犯人として逮捕されながらも無罪となった小野悦男。遺体は凄惨な状況だったことから世間を恐怖のどん底に陥れました。それでは、小野悦男の生い立ちや冤罪判決を受けたその後の様子などについて迫っていきます!

小野悦男の現在!生い立ちから冤罪判決まで!首都圏女性連続殺人事件とその後のイメージ

目次

  1. 1小野悦男とは
  2. 2首都圏女性連続殺人事件の詳細
  3. 3小野悦男の生い立ち
  4. 4小野悦男への裁判の判決
  5. 5小野悦男のその後
  6. 6足立区首なし殺人事件の概要
  7. 7小野悦男の冤罪の真相は永遠に闇の中

小野悦男とは

1968年から1974年までの間に起きた連続殺人事件の犯人として逮捕され、その後、無罪判決を勝ち取り冤罪のヒーローと呼ばれた「小野悦男」をご存知でしょうか?当時、日本中の女性を恐怖のどん底に陥れた小野悦男の名前を憶えている、という人も多いはずです。

殺人は行っていないと主張し、多くの人を巻き込みながら無罪を勝ち取った小野悦男は、現在別の殺人事件で服役をしています。ここでは、日本中を疑惑の渦に巻き込んだ小野悦男について見ていきます。

首都圏女性連続殺人事件の犯人

1968年から1974年にかけて、日本中を恐怖のどん底に陥れた「首都圏女性連続殺人事件」。千葉県や埼玉県、東京都などの首都圏で主に20代の女性が強姦され、その後、殺害されるという残忍な犯行が起こります。

犯人は強姦が目的だったようで中には男性が殺害された事件もありましたが、殺害された人は12人にも及びました。当時、窃盗や住居侵入などの犯罪を繰り返していた小野悦男が容疑者として逮捕されます。

首都圏女性連続殺人事件の詳細

12人もの尊い命が奪われてしまった首都圏女性連続殺人事件。その犯行の手口は残忍極まるもので、事件が起こっていた地域に住んでいた女性たちはさぞかしおびえる毎日を過ごしていたのではないでしょうか?

ここでは、首都圏女性連続殺人事件の詳細についてと、逮捕された小野悦男との関連性について見ていきます。

6年間で起きた女性の連続殺人事件

6年の間に12人が殺害された、首都圏女性連続殺人事件の始まりは1968年7月13日でした。足立区で女性が強姦された上に殺害され、遺体が焼かれるという凄惨な事件が起こったのです。

その後、5年間の空白の後1973年からまたしても連続殺人事件が発生します。1973年の1月26日に東京都北区で22歳のOLが殺害され、2月13日にはアパートへの放火で22歳の男性と67歳の女性が焼死しました。

翌1974年7月10日には松戸市で21歳の女性教諭、7月14日に葛飾区で小料理屋の48歳と58歳の女性、7月24日には埼玉県草加市で22歳の薬局店員、8月6日に足立区で24歳の女性と次々と殺人が行われました。

8月8日には7月から行方不明になっていた19歳の女性が宅地造成地で遺体で発見されます。さらに8月9日には埼玉県志木市で21歳の女性が殺害され、8月10日にはこれまた宅地造成地で7月から行方不明になっていた30歳の主婦が遺体で発見されました。

悲惨な遺体で被害者が発見される

1968年から1974年までの間に、次々と女性が狙われた首都圏女性連続殺人事件。6年の間に殺害された人たちは悲惨な遺体となって発見されます。当時は犯人に対しておびえていたという女性も多かったことでしょう。

犯人の手口としては若い女性を狙って強姦をし殺害をします。その後、証拠隠滅のためかどうかはわかりませんが、遺体を焼くというおよそ人間として考えられない犯行でした。

殺害された12人のうち遺体を焼かれてしまった人が9人、土中に埋められてしまった人が2人と、ご遺族が遺体を見たらさぞかし悲しむのではないかというほどの悲惨な遺体だったそうです。

小野悦男と事件の関連性

6年もの間に次々と若い女性たちが殺害されていった首都圏女性連続殺人事件ですが、犯人と目された小野悦男が逮捕されることになったきっかけは一体何だったのでしょうか?逮捕されるにはそれ相応の理由があったはずです。

火の無い所に煙は立たないと言われているように、きっと小野悦男が事件と何らかの形で関わっていると警察が踏んだのでしょう。ここでは、小野悦男と事件の関連性についてみていきます。

窃盗容疑で逮捕されていた

首都圏女性連続殺人事件と関係があり、さらには犯人ではないかと警察からマークをされていた小野悦男。現在の世の中では許されることではありませんが、犯人として早急に逮捕したいと考えていた警察は、小野悦男を窃盗の容疑で別件逮捕します。

1974年の6月に松戸市内のマンションからカラーテレビやネックレスなどを盗み、さらには本屋から29冊の本を盗んだとして同年9月12日に窃盗容疑で逮捕しました。

物的証拠はなかった

松戸市内のマンションからカラーテレビなどを盗んだとして窃盗容疑で逮捕された小野悦男ですが、なぜ警察は殺人容疑ではなく窃盗容疑という別件での逮捕をしたのでしょうか?そこには警察の思惑があったようです。

小野悦男が犯人である疑いが濃かったものの決め手に欠けていました。つまり物的証拠がほとんどないという状況だったのです。そのため事件解決を急いだ警察は別件逮捕ではあったものの小野悦男を窃盗容疑で逮捕しました。

メディアが犯人として報道

物的証拠が揃っていなかったものの、早期の事件解決のために別件逮捕という形で小野悦男の身柄を抑えた警察でしたが、早期の事件解決を願っていたのは世間も同じだったのは言うまでもありません。

殺人容疑ではなく窃盗容疑で逮捕されていたにも関わらず、小野悦男が事件に関わっているのではないかという憶測だけで、メディアが大々的に小野悦男を犯人として報道したのです。

その報道は逮捕からわずか3日後には始まっていたそうで、各新聞社などがこぞって小野悦男を犯人と決めてかかり、中には殺人鬼とまで呼ぶなど過剰な報道合戦を繰り広げました。

逮捕の決め手

警察も別件逮捕に踏み切り、メディアも大々的に小野悦男が犯人であると報道しましたが、その決め手となるものは一体何だったのでしょうか?物的証拠もほとんどないにも関わらず、小野悦男を犯人と決めつけるものがそこにはあったはずです。

それでは、小野悦男が首都圏女性連続殺人事件の犯人であると断定するに至った決め手についてみていきましょう。

決め手①放火や窃盗の前科

首都圏女性連続殺人事件の犯人とする決め手になったものとして最初に挙げられるのが、小野悦男の放火や窃盗の前科なのではないでしょうか?警察も犯罪と無縁の人間を逮捕しようとはなかなか思わないものです。

小野悦男は逮捕された時には前科が8犯もあったそうです。その中に殺人などの罪はなかったものの、窃盗や放火、住居侵入などの罪があり今回の首都圏女性連続殺人事件に共通する犯罪が含まれていたことが要因となりました。

決め手②血裔型が一致

次に、小野悦男が首都圏女性連続殺人事件の犯人とされた決め手は、やはり血液型の一致にあるでしょう。殺害現場に残されていた遺体から割り出された犯人の血液型はO型でした。当時のDNA鑑定の技術は現在ほど高くはなかったものの、O型と断定したようです。

しかしこの見解に対しては、すべての事件の遺体から発見された血液型がO型ではないことから、模倣犯も含まれているのではないかという意見もありました。

決め手③現場近くで職務質問を受ける

殺害現場に残されていた血液型がO型だったということに加え、小野悦男が犯人ではないかと言われるようになったのが職務質問だそうです。

よく犯罪を犯した者は犯罪現場に戻ってくるという話があるように、小野悦男も犯行現場近くで職務質問されたことが逮捕の決め手の一つとなったようです。

決め手④現場の足跡が一致

さらに首都圏女性連続殺人事件の犯人とする決め手となったのが、現場に残されていた「足跡」であると言われています。松戸市の殺害現場に残されていた足跡と、小野悦男が履いていた靴の跡が一致したのです。

この足跡の一致には警察も小野悦男が犯人であるという見方を一層強め、別件逮捕してでも犯行を認めさせるだけの自信があったのではないかと思われます。

決め手⑤事件現場の地理に詳しい

続いて小野悦男が犯人とする決め手となったものとして、事件現場の地理に詳しいということではないでしょうか?警察も事件現場の地理に詳しい人たちをピックアップしていたはずです。

その中で小野悦男が容疑者として浮上しました。当時、小野悦男は清掃員の仕事をしていたため現場の地理には詳しかったようで、そのことが逮捕の決め手になったと思われます。

決め手⑥はしごの扱いに慣れている

現場に残された足跡と現場の地理に詳しいことから小野悦男が犯人ではないかと疑われるようになったのですが、警察は犯行現場がアパートの2階だったことにも着目しました。2階の部屋へ侵入して犯行に及んだケースがあったからです。

その点を踏まえて捜査をしたところ、侵入にははしごが使われいることが判明し、当時、建設作業員などの仕事もしていた小野悦男ははしごの扱いにも慣れていると判断されました。

決め手⑦小野悦男が犯人だと密告の電話

すべての事件において確固たる物的証拠が揃っているわけではなく、あくまでも状況証拠の積み重ねと小野悦男自身の自白によって犯人であるとされたのですが、その中には小野悦男が犯人であるとの密告電話もあったそうです。

それは、1968年に起きた足立区で26歳のOLが殺害された事件にまでさかのぼります。事件が起きた数ヶ月後に、警察に小野悦男が犯人である旨の密告電話がかかってきたそうです。

小野悦男の生い立ち

1968年から1974年までの間に、12人もの人が殺害され遺体を焼かれてしまった首都圏女性連続殺害事件。物的証拠がないまま小野悦男を逮捕したのですが、当時から小野悦男の生い立ちについてメディアがこぞって取り上げていたことは言うまでもありません。ここでは、首都圏女性連続殺人事件の犯人と言われていた小野悦男の生い立ちについてみていきます。

生い立ち①6人兄弟の次男

首都圏女性連続殺人事件の犯人ではないかと目されていた小野悦男は、1936年6月に茨城県行方郡北浦町で生まれました。6人兄弟の次男として誕生し、決して裕福な家庭で育ったわけではないようです。

生い立ち②家庭環境が複雑

6人兄弟の次男として生まれた小野悦男ですが、実は家庭環境がとても複雑だったそうです。6人いる兄弟はすべて父親が違うらしく、母親に父親のことを聞いても幼い頃に死んでいるとだけ言われ父親の顔すらわかりませんでした。

そんな家庭環境が影響したのかどうか定かではありませんが、小野悦男は中学生の時からすでに素行が悪く地元では有名だったそうです。そのせいか中学校も2年ほどで中退してしまうことになりました。

生い立ち③16歳で無免許運転で逮捕

父親の顔さえも知らないという複雑な家庭環境で育って、中学でも素行の悪さから2年生で中退してしまうなど地元では有名だった小野悦男ですが、16歳の時にとうとう警察に逮捕されてしまいます。

逮捕の容疑は無免許運転でした。おそらくは知人の車かはたまた盗難車だったのか定かではありませんが、16歳の時に無免許運転をしたことで逮捕されてしまったのです。この逮捕をきっかけにその後、窃盗や詐欺などの事件を起こすようになりました。

生い立ち④14回の逮捕と13回の服役

16歳の時に無免許運転で逮捕されてしまった小野悦男は、その後、次々と窃盗や詐欺などの犯罪に手を染めていきます。最初のうちは服役をするまでには至らない犯罪であっても、犯行を重ねていくことで服役をするようになっていきました。

その数は驚くべき数字で、14回の逮捕で13回の服役をしているそうです。年数にして13年間も刑務所に入っていたという事実を知って驚かれた人も多かったのではないでしょうか?

生い立ち⑤転職を繰り返す

14回の逮捕で13回の服役をしていた小野悦男。犯罪に犯罪を重ねていた小野悦男は網走刑務所で服役をしていました。網走刑務所を出所した小野悦男はすぐに上京します。上京したと言ってもすぐに仕事は見つかりませんでした。

兄弟が東京にいることもあって兄弟や親類の家を転々としながら仕事を探し、塗装業や大工などの仕事に就いたそうですが、どれも長続きはせずに転職を繰り返していました。

生い立ち⑥逮捕直前は清掃員

網走刑務所を出所後は上京をして、兄弟や親類の家を転々としながら転職を繰り返していた小野悦男ですが、逮捕される直前の仕事は安定した清掃員の仕事だったそうです。

小野悦男の心の中は本人にしかわかりませんが、もしかすると真面目に働くつもりだったのかもしれません。

小野悦男への裁判の判決

1968年から1974年の間に12人を殺害し、遺体を焼くなどの卑劣な犯行に及んだと言われた小野悦男の裁判は、当時、世間の注目を一心に集める大ニュースであったことは言うまでもありません。

その小野悦男の裁判を実際に見に行かれたという人もいたのではないでしょうか?ここでは、世間の注目を集めた小野悦男の裁判の判決についてみていきます。

松戸信金OL殺人事件で起訴される

首都圏女性連続殺人事件の犯人だと言われ、連日のように新聞などでとりあげられていた小野悦男ですが、実際に起訴されたのは1974年7月3日に起きた松戸信金OL殺人事件についてでした。

7月3日に行方不明となり8月8日に松戸市内の宅地造成地から遺体が発見されたという惨い事件です。この事件では現場から小野悦男の足跡が発見されたことと、採取された体液が小野悦男のものと一致したという理由で逮捕され、その後、起訴されました。

救援会の支援で自白取り消し

松戸信金OL殺人事件で起訴された小野悦男でしたが、検察の連続殺人犯としての見立てや連日のメディアの報道を耳にして、このままでは自分が首都圏女性連続殺人事件の犯人にさせられてしまうと危機感を募らせます。

そこで小野悦男は「救援センター」へ「自分は殺人をしていない」と要請をしました。小野悦男に会って「人となり」を確認し、冤罪であると確信をした救援センターの人たちは「小野悦男さん救援会」を立ち上げます。

救援会は文化人や弁護士などが中心となり、小野悦男の逮捕のきっかけとなった自白について徹底的に調べました。その結果、自白は強要されたものとして取り消されることになるのです。

判決は無期懲役から無罪へ

逮捕から11年が経過した1986年9月4日、千葉地裁松戸支部で下された判決は「無期懲役」というものでした。この判決に小野悦男と救援会の人たちは憤ったに違いありません。

無期懲役の判決を不服とした小野悦男と救援会のメンバーはすぐに控訴をします。その結果、1991年4月23日、東京高裁は自白は信用性に欠けるとして一転無罪の判決を下したのです。この判決は世間を大きく揺るがすものとなりました。

近隣住民の疑いの声

救援会の活動もあって、晴れて無罪の判決を勝ち取った小野悦男ですが、世間の小野悦男を見る目は決して無罪ではなかったようです。

無罪判決後は足立区の団地に母親と二人で暮らしていましたが、近所の住民からは疑いの目を向けられていました。団地では家庭菜園などを行っていたらしいのですが、近所の人に「死体は土に埋めたらわからない」などの発言をしていたそうです。

「冤罪のヒーロー」となる

1991年に東京高裁で無罪判決を受け、1975年の逮捕から16年7か月ぶりに釈放されることとなった小野悦男。この判決に小野悦男をはじめ救援会の人たちは喜びを爆発させたそうです。

この時、小野悦男は窃盗と婦女暴行で懲役6年の判決が出ていたのですが、16年7か月という長期にわたる拘留期間と差し引いての釈放でした。これにより小野悦男は晴れて自由の身となり、さらには国から補償金として3650万円を手に入れたのです。

別件逮捕されてから殺人容疑に切り替えられ、さらには自白の強要によって起訴までされた後の無罪判決での釈放は、当時「冤罪のヒーロー」としてもてはやされました。

小野悦男のその後

裁判でも有罪判決が出るだろうと思われていた小野悦男の裁判。しかし世間の予想を裏切って出された判決は無罪というものでした。無罪判決を勝ち取って冤罪のヒーローともてはやされた小野悦男は、その後どうなったのでしょうか?

涙ながらに判決を聞く姿に心を打たれた人もいたそうです。ここでは、無罪判決を勝ち取った小野悦男のその後についてみていきます。

マスコミ各社が謝罪記事を掲載

1975年に逮捕されてわずか3日後には、首都圏女性連続殺人事件の犯人であるという報道がなされていたことは上述した通りです。その過熱した報道合戦は、当時からやりすぎではないかと言われていたのも事実でした。

そんな過熱報道を繰り返していたメディアは、小野悦男を首都圏女性連続殺人事件の犯人と決めつけてしまったことに対して謝罪の記事を掲載したそうです。

冤罪に関する講演会を開く

無罪判決を受けて晴れて釈放をされた小野悦男は、冤罪のヒーローとして瞬く間に時の人となったことは言うまでもありません。釈放後は冤罪のヒーローとして各地の講演会などに引っ張りだこになりました。

講演会では冤罪を受けた者として長期間にわたる留置場での拘留、いわゆる「代用監獄」のことや日本警察の「自白偏重主義」についての批判などをしていたそうです。

無罪判決の翌年に窃盗で逮捕

冤罪のヒーローとして日本各地で講演会などを行っていた小野悦男は、このまま順風満帆な人生を送るのではないか、と誰もが思っていたのではないでしょうか?しかし、小さい頃から身についてしまっていた悪い癖が出てしまいます。

多くの人たちに支えられて無罪を勝ち取り、さらには冤罪のヒーローとしてもてはやされるようになった翌年に窃盗の罪で逮捕されてしまいました。これにより2年の服役を余儀なくされます。

足立区首なし殺人事件で逮捕

無罪判決の翌年に逮捕されてしまい、冤罪のヒーローという名前に陰りが見え始めた小野悦男ですが、冤罪のヒーローという名前を失う決定的な事件が起こってしまいます。

1996年1月9日、足立区六月町の駐車場にマネキンのような黒い物体があるという通報が警察に入りました。これにより冤罪のヒーローだった小野悦男の人生は180度変わっていくことになります。

足立区首なし殺人事件の概要

1996年1月9日、駐車場にマネキンのような黒い物体があるという通報を受けた警察が駆け付けたところ、マネキンのような黒い物体は遺体であったことが判明し殺人事件として発表されました。

ここでは、冤罪のヒーローと呼ばれた小野悦男の人生が大きく変わる原因となった「足立区首なし殺人事件」の概要についてみていきます。

首のない女性の焼殺遺体が発見

「駐車所にマネキンのような黒い物体がある」という通報を受けて警察が駆け付けると、そこには焼かれた女性の遺体があり、驚くべきことに首が切り取られているという状態でした。その後の調べで遺体の陰部も切り取られていることが発覚します。

この事件が起きたことで真っ先に小野悦男が犯人なのではないかと疑われましたが、前回の冤罪となった事件のこともあり、警察も迂闊に小野悦男に手が出せない状態だったそうです。

逮捕のきっかけは少女殺害未遂

足立区で起きた首なし殺人事件の犯人が、小野悦男ではないかと疑いながらも手を出せずにいた警察でしたが、思ってもいなかったことから小野悦男を逮捕することになりました。それは「少女殺害未遂」事件です。

1996年4月21日に公園で遊んでいた少女を自転車に乗せて違う公園まで連れて行き、その後、猥褻な行為をした後に首を絞めて殺そうとしました。結局、少女は殺害されず失神だけで済んだのですが、この犯人として小野悦男が逮捕されたのです。

自宅から切断された頭部が発見

少女殺害未遂の容疑で警察に逮捕されることになった小野悦男ですが、やはりその前の足立区で起きた首なし殺人事件についても追及がなされました。

警察による取り調べの結果、小野悦男が住んでいる団地の裏庭から頭部を切断した際に使ったノコギリが発見されたのです。その後、腐敗の進んだ頭部も見つかり、さらには冷蔵庫から切り取られた女性の陰部までも発見されました。

判決は無期懲役で服役中

遺体の首を切断した後に焼くという凶行に出た小野悦男は逮捕されることになります。首都圏女性連続殺人事件の時とは違い、多くの証拠が出てきたことが決め手となっての逮捕でした。

1998年3月7日の東京地裁の判決では無期懲役、1999年2月9日の東京高裁の控訴棄却により刑が確定。その後、刑務所に収監され現在も服役をしているようです。

裏切られた救援会

1975年に小野悦男が救援センターに「殺人はやっていない」と要請してから、ずっと小野悦男の無罪を信じて支え続けてきた人たちは一体どんな気持ちだったのでしょうか?きっと裏切られたと思う人も多かったはずです。

しかし、小野悦男を救援すべき立場の弁護士でさえも「弁護人だったため言えなかったが、小野悦男を疑っていた」という話が出るほど、周りから小野悦男は「クロ」と思われていたのかもしれません。

小野悦男の冤罪の真相は永遠に闇の中

1968年から1974年にかけて起こった首都圏女性連続殺人事件の犯人とされながらも、その後、冤罪だったとして無罪を勝ち取った小野悦男ですが、今度は間違いなく殺人を犯して無期懲役の判決を受けました。

日本には、一度出た判決について再度争うことができない一事不再理の原則があります。一連の事件の犯人は小野悦男だという説も流れる中、一事不再理の原則があり小野悦男も服役しているため、冤罪とされた事件の真相は永遠に闇の中から出てくることはないでしょう。

関連するまとめ

Original
この記事のライター
大橋類太郎
北海道の田舎に住んでいる大橋類太郎です。 ドライブが好きで暇さえあれば広い北海道を走り回っています。 コツ...

人気の記事

人気のあるまとめランキング

新着一覧

最近公開されたまとめ