市川一家4人殺人事件の概要と関光彦死刑囚まとめ!事件のその後も

類を見ない凄惨な事件として知られる市川一家4人殺人事件。犯人である関光彦死刑囚は当時少年ながらもその残酷且つ身勝手極まりない動機等から極刑判決が言い渡されました。今回はこの関光彦死刑囚と事件の概要についてまとめてみました。生き残った長女は今?

市川一家4人殺人事件の概要と関光彦死刑囚まとめ!事件のその後ものイメージ

目次

  1. 1市川一家4人殺人事件とは
  2. 2殺害後に長女を強姦した関光彦元死刑囚
  3. 3市川一家4人殺人事件の実行犯「関光彦元死刑囚」とは
  4. 4市川一家4人殺人事件で下された判決
  5. 5市川一家4人殺人事件で唯一生き残った長女のその後
  6. 6市川一家4人殺人事件は関光彦の死刑にて幕を下ろした

市川一家4人殺人事件とは

関光彦元死刑囚によって引き起こされた市川一家4人殺人事件の概要

先ずはこの市川一家4人殺人事件の概要についてご説明したいと思います。市川一家4人殺人事件(いちかわいっかよにんさつじんじけん)は、1992年3月5日の夕方から翌3月6日朝にかけて千葉県市川市幸二丁目のマンションで発生した強盗殺人・殺人・強盗強姦などの事件です。

暴力団と女性関係を巡るトラブルを起こした加害者は、落とし前として暴力団から要求された現金200万円を工面する為、事件を起こす1か月前に強姦した少女の自宅マンションに侵入。一晩のうちに少女の両親と祖母、そして妹の一家4人を殺害。そして1人残された被害者遺族の少女を凄惨な殺害現場で強姦したのです。

この事件の犯人である関光彦元死刑囚(2017年に死刑執行。以後関光彦元死刑囚で統一)は犯行当時19歳であった為、本件は未成年が引き起こした少年犯罪事件という事に成ります。その余りにも残虐で無残な殺害方法と身勝手極まりない犯行動機から、被告に対する死刑判決が下されるか否かに焦点が集まりました。

皆さんも御存知の通り、現在日本ではこの少年法を巡る解釈について大きく揺れ動いている状態にあります。戦後に制定された少年法と現在の日本社会との間にある「ズレ」が、大きな社会的矛盾を引き起こしている状態なのです。

「少年を保護する」という名目である筈の少年法が、「少年であれば如何なる犯罪を犯しても極刑は免れる」という免罪符と成っているという矛盾。その矛盾はこの市川一家4人殺人事件でも焦点と成りました。

発端は関光彦元死刑囚がホステスを監禁した事から

この事件の発端と成ったのは、関光彦元死刑囚が行ったある女性に対する監禁行為でした。関光彦元死刑囚は1992年2月6日、市川市で営業するフィリピンパブに勤務する顔馴染みのホステスを連れ出し、その女性を自宅にて二日間監禁するという行為に及びます。

翌々日の8日に泣きながら店に戻った2人のホステスは、関光彦元死刑囚によって監禁されていたという事実を経営者に報告。その行為に激怒したフィリピンパブの経営者は、知り合いの暴力団組員に対し関光彦への追い込みを依頼。これにより関光彦元死刑囚はヤクザに狙われる事と成ります。

買い物帰りだった女子高生に車で突撃した関光彦元死刑囚

関光彦元死刑囚は2月12日の深夜2時頃、自転車を運転中だった女子高生の背後へと車を走らせ、わざとその女子高生を転倒させます。そして優しく「病院に連れていく」と声を掛けると、その女子高生を自らの車に載せ病院へと走らせました。

この女子高生が市川一家4人殺人事件で唯一生き残った長女(当時15歳)だったのです。彼女はこの日深夜まで勉強を頑張っていたそうで、シャープペンシルの芯が切れた為コンビニへと買い出しに行った帰り道だったそうです。彼女はそこで不幸にもこの怪物に目を付けられてしまいました。

最初は警戒していた長女ですが、関光彦元死刑囚が言葉通りに浦安市内の病院で治療を受けさせた事もあってか安心していた様で、「自宅に送り届けるよ」という言葉に従ってしまいます。その後市川方面に車を走らせていた関光彦元死刑囚は、人気のない場所に車を止めるやいなや長女に対し牙を剥き出しにしたのです。

関王光彦死刑囚はナイフを取り出し長女を脅迫。それでも必至に抵抗する長女の左頬と左手を切り付け全治約2週間の傷害を負わせた後「黙って俺の言うことを聞け」と脅し、そのまま自宅アパートに拉致。彼女はそこで2回に渡り関光彦元死刑囚から強姦を受けています。

長女を強姦した関光彦元死刑囚は持ち物を漁り、財布から現金を奪い取りました。そして生徒手帳から長女の個人情報を入手すると、そのままフラッと部屋から出ていったそうです。長女はその後関光彦元死刑囚が居なくなったその部屋から自力で脱出しています。

実はこの犯行に及ぶ前日にも関光彦元死刑囚は東京都中野区の路上を歩いていた24歳の女性を襲い、鼻の骨を折るなどの怪我を追わせた上で、車に連れ込んで自宅に監禁し強姦するという事件を起こしています。これらを踏まえると、恐らく関光彦元死刑囚は日常的に無差別な強姦行為に及んでいたものであると考えられます。

殺害後に長女を強姦した関光彦元死刑囚

お金に困り被害者宅に押し入った関光彦元死刑囚

関光彦元死刑囚がフィリピンパブの女性を監禁した一件で、暴力団関係者から追い込みが掛けられる事に成ったという事は先程ご説明致しましたが、実は関光彦元死刑囚は長女を強姦した日の夜、つまり遡ること犯行に及ぶ数時間前に暴力団組長から東京の全日空ホテルに呼び出され、落とし前として現金200万円を用意する様に要求を受けていたのです。

その後自宅に戻る途中で偶然長女を発見した関光彦元死刑囚は、憂さを晴らすために犯行に及んだモノと考えられます。そして強姦した後に長女の個人情報を控えた事が、その後の大惨事に繋がっていく事に成りました。

その後関光彦元死刑囚は暴力団組長から要求された200万円を用意できず、取り立てを恐れる余り自宅にも帰る事が出来ない日々を過ごしていました。車中泊を繰り返し、手持ちの現金も底を尽きかけていた関光彦元死刑囚は、あの日強姦した長女の自宅に強盗へ入る決意をします。

関光彦元死刑囚は暴力団組長から要求されている金も用意出来る上に、また長女を強姦することでストレスも解消する事が出来ると、本気で考えていたそうです。そうして関光彦元死刑囚は長女の生徒手帳に有った住所地に赴き、犯行に及ぶ前の下調べを入念に行います。

そうして長女一家が住む部屋号室や帰宅時間、在宅状況等を調べ上げ、更にはエレベータホールの監視カメラの位置等のチェックを済ませた上で、最も犯行が容易であると判断した夕方頃に被害者宅へ侵入する事を決めます。

1992年3月5日午後4時30分頃、事前に被害者宅へ電話を入れた関光彦元死刑囚は、誰も電話に出なかった事から被害者宅の留守を確信。監視カメラを避けるために外階段を使って被害者宅の階層迄侵入した後、被害者宅のチャイムを鳴らしましたがそれでも反応が無く、鍵も開いていた為にそのまま犯行に及びます。

関光彦元死刑囚は長女以外の全員を惨殺

侵入後直ぐに祖母が洋室で寝ている事に気がついた関光彦元死刑囚ですが、意にせずそのまま室内の物色を開始。しかし現金が見つからなかった為眠っていた祖母を起こし、脅しながら現金の在り処を尋ねるも、祖母は自らの現金を差し出した上で今すぐ出ていくようにと言い放ったそうです。

再度祖母に対し現金の在り処を白状するように迫った関光彦元死刑囚ですが、それに祖母は応じず、急な尿意を齎した関光彦元死刑囚は祖母に「通帳を出しておけ」と指示した上で一度トイレへ。戻ってみると祖母が警察へと通報をしようとしているのを発見したため、近くに有った電気コードで祖母を絞殺。その後祖母のカバンから現金10万円を奪っています。

関光彦元死刑囚はその後被害者宅に隠れ続け、帰宅する家族を次々に惨殺。その中には長女の父親違いの妹である4歳の妹も含まれていました。長女は母親と共に帰宅した所を関光彦元死刑囚に襲われ、目の前で母親が背中に包丁を突き刺されて惨殺された直後と、その後ラブホテルへ連れて行かれた後に強姦されています。

父親の事務所スタッフの通報により事件が発覚

この事件が発覚したのは、一家の父親が経営する事務所のスタッフが通報した事によってでした。しかし、実は事務所スタッフからの通報は2度行われて居たのです。

父親の事務所からの通報も1度目は認知されず

一度目の通報は犯人と長女が父親の事務所に通帳と印鑑を取りに行った時の事でした。不審に思った従業員は派出所に連絡し、午前1時30分ごろに葛南署員とともに被害者宅に出向いています。

そこで部屋のドアを叩いたり室内に電話を掛けていますが、部屋の照明が消えている上に応答もなかったため、署員は不在と思い判断して引き揚げてしまったのです。

2度目の通報でようやく事件が明るみに

昨晩の行動をずっと不審に思っていた従業員は、その朝にも再度金の工面の電話を長女から受けた事もあり、再度朝方にマンションへ電話を入れます。電話口に出た長女は「おはよう」と言ったまま押し黙っており、長女に対し「脅しているやつが其処にいるのか?」と確認したところ「うん」と頷いた為、即座に警察に二度目の通報を行います。

そうしてこの通報を受けた派出所の警察官と従業員が再度マンションを訪れ、隣の部屋のベランダから被蓋者宅に侵入し、そこで初めて事件が明るみに出たのです。1度目の通報で事件が発覚していたら、長女の妹である種違いの妹は殺されずに済んだと考えると残念で成りません。

市川一家4人殺人事件の実行犯「関光彦元死刑囚」とは

市川一家4人殺人事件の実行犯・関光彦の生い立ち

それでは市川一家4人殺人事件の実行犯である関光彦元死刑囚の生い立ちについてご紹介して参りたいと思います。

荒んだ家庭に育った関光彦元死刑囚

関光彦元死刑囚の家庭環境は非常に荒んだ環境にあったそうですが、それは主に彼の父親が齎した原因によるものだったそうです。

父親は母や弟・関光彦元死刑囚に対し日常的に虐待を行っていた

関光彦元死刑囚の父親は、日頃から関光彦元死刑囚や弟、そして母親に対して日常的に虐待行為を行っていたと言います。サラリーマンの父は酒・女・博打に溺れる典型的なダメ人間だったそうで、毎日酒を飲んでは家族に対し暴力を振るうのが日常だったと言います。

ギャンブルによる多額の借金も

そして父親にはギャンブルで負った多額の借金があり、それが家族の生活に重くのしかかっていたと言います。この借金の取り立ても想像を絶するほどの過酷なモノであったとされており、これに耐えかねた母は子供たちを連れて夜逃げ。その後協議離婚が成立したという事です。

高校中退後は祖父の営む鰻屋の手伝いをしていた関光彦元死刑囚

祖父は関光彦元死刑囚から受けた暴力によって失明

関光彦元死刑囚は高校に進学するも僅か1年で中退。その後母方の祖父が経営する鰻屋の手伝いをしていたそうです。然しそんな関光彦元死刑囚も結局父親の様に母親や弟に対し家庭内暴力を行うように成り、しまいには祖父の鰻屋の売上金である120万円を盗み出す始末。

これに激怒した祖父でしたが、関光彦元死刑囚はそんな祖父の顔面を蹴り上げて眼球を破裂させるという大怪我を負わせています。この一件で関光彦元死刑囚は家族からも厄介払いされる事となり、一人暮らしを始めることに成ったのです。

関光彦元死刑囚の祖父が営んでいた鰻屋の現在の様子は?

関光彦元死刑囚の祖父が営んでいた鰻屋は、地元でも非常に有名なお店だったそうです、祖父が一代で築き上げてチェーン展開も果たしたこの鰻屋でしたが、現在は既に事業を畳んでいます。恐らくは関光彦元死刑囚の一件が原因かと思われます。

関光彦元死刑囚は様々な犯罪に手を染めていた?

関光彦元死刑囚は今回の事件以外にも様々な犯罪に手を染めていたそうです。明らかに成っているだけでも数件の強姦や恐喝、傷害事件などを起こしていたそうで、いつ大事件を起こしてもおかしくない人物であったと言えます。

18歳でフィリピンパブの女性と結婚するも蒸発?

関光彦元死刑囚は18歳の時に一度結婚しています。相手はフィリピンパブに務める女性で、その女性との間には子供も設けているそうです。

関光彦元死刑囚の妻と子供のその後

関光彦元死刑囚の妻と子供のその後に関しては一切分かりません。というのも、この妻は関光彦元死刑囚と結婚して3ヶ月後に、病気の姉が心配だと言ってフィリピンに帰国し、それっきり日本には帰っていないのです。

もしかすると関光彦元死刑囚からDVを受けていて、姉が心配だというのは逃げるための口実だったのかも知れません。何れにせよそういった理由から関光彦元死刑囚の妻と子供のその後の消息は一切不明のままです。

市川一家4人殺人事件で下された判決

一審・二審ともに死刑判決が下された関光彦元死刑囚

市川一家4人殺人事件。この事件の裁判での判決は一審・二審ともに「死刑」でした。少年法で保護される19歳の少年が起こした事件でしたが、裁判所は関光彦元死刑囚に対し死刑を言い渡したのです。

2001年に関光彦元死刑囚の死刑判決が確定

その後最高裁まで弁護側が上告を行うも、2001年に関光彦元死刑囚への死刑判決が確定。これにより関光彦元死刑囚は極刑を以て罪を償う事と成りました。

死刑判決には賛否両論も?

この死刑判決に対して賛否両論の声があるそうです。この事件は少年法という微妙な部分も含んでいるため、その観点でも死刑を疑問視しているのかも知れません。

終身刑の方が良かったのでは?との声も

そんな中に「終身刑の方が良かったのでは?」との声があるそうですが、そもそも日本には終身刑など無いですし、無期懲役は終身刑ではなく有期刑(仮釈放の可能性あり)です。そんな事も知らずに終身刑云々と口にするのは真愚かの極みでしょう。

様々な意見があるでしょうが、この事件の場合極刑を以てしても未だ生温いと感じる方のほうが多いのでは無いかと思います。「7回転性して7回死刑にしても未だ足りない」という意見もあるそうですが、まさにその通りです。この関光彦元死刑囚の犯した罪は、恐らく何を以てしても裁き切る事は出来ないでしょう。

判決を不服として再審を要求した関光彦元死刑囚

この判決を不服とした関光彦元死刑囚は、2006年に事件の再審請求を要求しています。再審請求は冤罪事件等でも行われますが、多くの場合死刑囚の延命目的にあると言われています。何故なら再審が行われている期間中が死刑が執行される事が無いからです。

犯行当時未成年の死刑執行は史上2人目

未成年が引き起こした事件によって死刑判決が下されたのは関光彦元死刑囚で史上二人目と成ります。この件で少年法自体の解釈が改められるとすれば実に良いことです。少年法を免罪符として機能させては絶対にいけないのです。

その後関光彦元死刑囚に心境の変化が?

関光彦元死刑囚は死刑確定後に心境の変化が有ったといいます。然しながらそれが本当かどうかは分かりませんし、だからといって罪が軽くなる訳でも、命を奪った人達が生き返る訳でもありません。心境がどう変わろうがそんな事は単なる自慰行為に過ぎないのです。

東京新聞記者との文通に応じた関光彦元死刑囚

関光彦元死刑囚は東京新聞記者との文通を行っていたそうで、そのやり取りの一部は東京新聞にコラム化されて掲載されています。これらも死刑囚にはありがちな話ですね。

2017年に関光彦元死刑囚への死刑が執行された

2017年12月19日、関光彦元死刑囚の死刑が執行されました。元々80kg有った体重が120kgにまで膨れ上がっていたのは、死刑執行の際の絞首縄がその重さに絶えられなくなるのを狙っていたのでは?とも言われたそうです。

1997年に永山則夫の死刑が執行されて以来、20年振りとなる未成年事件の死刑執行。これで一応事件の幕は下ろされる形と成りました。

市川一家4人殺人事件で唯一生き残った長女のその後

母方の実家で生活した長女はその後美術学校へ

唯一生き残った長女のその後ですが、一先ずは母の知人の所に身を寄せた後、母方の実家である熊本県に移り住み、その後美術系の大学に進学したそうです。

結婚した長女はその後ヨーロッパへ移住

その後結婚した長女は現在ヨーロッパに移り住み、家族とともに幸せに暮らしていると言います。恐らく忘れたくても忘れることは一生できないでしょうから、日本とは全く関係のない国で生きていくという選択がBESTである事は間違いないでしょう。

市川一家4人殺人事件は関光彦の死刑にて幕を下ろした

今回は市川一家4人殺人事件についてまとめてみました。関光彦元死刑囚の死刑にて幕を下ろしたこの事件。然しながら未だに胸にムカムカしたモノが込み上げてくるという方も多いのでは無いでしょうか?人としての所業とは思えぬこの事件。もう二度とこの様な事件が起きない事を祈るばかりです。

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