内田篤人の現在!怪我の状況は?今までの経歴や年俸の推移も!
内田篤人は日本代表としてプレーしていた事もあるプロサッカー選手です。ドイツでプレーしていましたが現在はJリーグに復帰していてプレーしているという情報があります。内田篤人の現在の様子や、これまでの経歴、プロデビューからの年俸の推移なども取り上げました。

内田篤人のプロフィール
・愛称:うっちー
・本名:内田篤人(うちだあつと)
・生年月日:1988年3月27日
・年齢:31歳(2019年8月現在)
・出身地:静岡県田方郡函南町
・血液型:O型
・身長:176cm
・体重:67kg
・活動内容:サッカー選手
・所属グループ:鹿島→シャルケ→ウニオンベルリン→鹿島
・事務所:SARCLE
・家族構成:妻、娘
内田篤人の経歴
それでは内田篤人の経歴を取り上げます。内田篤人は1988年に静岡県で生まれ育ち、日本代表としても活躍したことのあるプロサッカー選手です。ポジションはDFの右サイドバックの名選手として知られており、DFながらオーバーラップの攻撃センスの良さは多くの関係者が絶賛するレベルにありました。
経歴の上では中学でもサッカーをしていた内田篤人ですが、その頃は目立った活躍をするような選手ではありませんでした。サッカーの強豪校である清水東高等学校に入るとドンドンその技術やセンスは磨かれることになり、卒業する時には多くのクラブからオファーを受けるほどの選手に育っていました。
数あるクラブの中から鹿島アントラーズを選んだ内田篤人は、ベストイレブンに選ばれるなどの目覚ましい活躍を見せクラブを3連覇に導きます。そしてドイツのシャルケに移籍した内田篤人はそこでも見事なプレーを見せますが、右膝蓋腱靭帯損傷という選手生命を左右するほどの大怪我を負ってしまいます。
怪我をしている状態で無理をしてブラジルW杯やチャンピオンズリーグを優先させた結果、怪我の状態は悪化して手術を受けました。怪我から復帰した後はウニオンベルリンを経て古巣である鹿島アントラーズに復帰し、今日もピッチに立っています。
内田篤人の現在
それでは、内田篤人の現在の様子について取り上げて見ていこうと思います。内田篤人は鹿島アントラーズからドイツのシャルケに移籍し活躍しましたが、大きな怪我に悩まされた結果現在では鹿島アントラーズに復帰しています。その後現在はどのような活躍を見せているのかを見ていきましょう。
2019年の誕生日で年齢31歳の内田篤人
内田篤人は2019年8月現在で31歳という年齢になっており、サッカー選手の中ではベテランの部類に入ったと言えるでしょう。しかし、メッシやクリスティアーノ・ロナウドも30歳を超えており、サッカー選手の選手寿命も長くなっていることから、現在の内田篤人の活躍を踏まえるとまだプレーできると言われています。
現在もイケメンサッカー選手として活躍
内田篤人は現在も鹿島アントラーズでピッチに立っています。内田篤人は端正な顔立ちをしている人が多いサッカー選手の中でもかなりルックスの良いイケメンと言われており、国内外を問わず女性から絶大な人気を誇っています。
内田篤人の現在のサッカー所属チームは?
内田篤人が現在所属しているサッカーのプロチームは「鹿島アントラーズ」になります。Jリーグの中では無類の強さを誇るビッククラブであり、レアルマドリードを相手に熱戦を繰り広げたことが大きく話題になりました。
内田篤人は現在所属している鹿島アントラーズに海外移籍をする前にも所属しており、内田篤人にとって鹿島アントラーズは古巣であると言える場所になっています。内田篤人は3連覇を成し遂げた立役者の1人であり、鹿島ファンの中ではレジェンド級の選手になっています。
ドイツのサッカーチームを経て鹿島アントラーズ復帰
内田篤人はドイツでシャルケというチームに所属し、そこでもスタメンを定着させて活躍していました。残念ながら右膝蓋腱靭帯損傷という交通事故レベルの大怪我を負ったせいでリハビリ生活を余儀なくされてしまうのですが、内田篤人はドイツでもベストイレブンに選ばれるほどの活躍をしていました。
シャルケ時代に大怪我を経験して日本に戻ってリハビリをしていましたが、シャルケに復帰した後は試合への出場機会が減ってしまったため、ウニオンベルリンなどを経て現在は古巣である鹿島アントラーズに戻ってきています。
内田篤人の現在の怪我の状況は?
内田篤人がドイツのシャルケで活躍していた時代に負った右膝蓋腱靭帯損傷という大怪我ですが、現在の内田篤人の怪我の状況はどうなのでしょうか?内田篤人の現在の怪我の状況について取り上げてまとめてみました。
ドイツのシャルケ時代から怪我に悩まされる日々
内田篤人を現在から過去に振り返ってみると、ドイツのシャルケ時代から怪我に悩まされていることが分かります。特にドイツのハノーファー戦で不調を訴えたことをキッカケに判明した右膝蓋靭帯の断裂に関しては、内田篤人は何年間も悩まされてしまうことになりました。
サッカー人生を揺さぶる膝の怪我に心配の声も
内田篤人が怪我をしてしまった右膝蓋腱の靭帯の損傷は、過去の症例も極端に少ない怪我であり、治療が実験のような雰囲気で進められたと語っています。各メディアも交通事故レベルと表現して内田篤人のサッカー人生においてとんでもない怪我が起きた事を報じていました。
2015年には膝蓋靭帯の手術
2014年のブラジルW杯に出るために無理をして走り続けたせいで内田篤人の右膝の状態は悪化してしまい、2015年にようやく手術を決意したといいます。内田篤人は右膝靭帯が固くなってしまう「骨化」という症状に悩まされ、ついに手術を決行しました。
現在の怪我の状況は?
内田篤人の右膝の手術自体は成功しましたが、そこから内田篤人を待っていたのは長きに渡るリハビリの毎日でした。比較的選手生命の短いサッカー選手にとって1年の重みは私の想像をはるかに超えるものだと思われますが、内田篤人は2年もの間ピッチから姿を消してリハビリに専念していました。
現在では鹿島アントラーズでプレーするにあたり、右膝の怪我が響いている様子はありませんが、現在の内田篤人があるのは地獄のようなリハビリの日々に耐えたからであり、常人にはとてもマネできるようなものではないことが分かります。

内田篤人の現在までの経歴
内田篤人が怪我に悩まされるサッカー人生を歩んできたことを取り上げてきましたが、ここからは内田篤人がサッカーを始めてから現在Jリーグに復帰して活躍しているところまでの経歴をしっかりと振り返っていきたいと思います。
経歴①高校卒業後にサッカー鹿島アントラーズ入団
内田篤人は中学生の時もサッカーをしていましたが、まさか将来の自分が日本代表の選手としてプレーするとは夢にも思わない程度の目立たない選手でした。しかし清水東高等学校に入学してから内田篤人は才能を開花させ、気が付けば多くのクラブが関心を寄せるスター選手になっていました。
そのオファーの中から内田篤人が最終的に選んだのが鹿島アントラーズです。現在もJリーグのトップクラス争いを続ける強豪チームに内田篤人は入団しました。内田篤人はこのチームで17歳にして得点することになり、当時の最年少記録を塗り替えました。
また、内田篤人は2008年にはJリーグのベストイレブンに選ばれるほどの功績を残し、2007~2009年のチーム3連覇に大きく貢献しました。この功績と内田篤人の能力が海外でも注目され、内田篤人はサッカー選手として次のステージに踏み出すことになりました。
経歴②ドイツサッカーチームのシャルケに移籍
内田篤人が次に所属する事になったチームがドイツのブンデスリーガで戦いを繰り広げるシャルケです。内田篤人はこのチームでも右サイドバックとして大きく活躍することになりました。その活躍はチャンピオンズリーグでの試合でベストイレブンに選ばれる時もあったほどです。
当時のチームメイトであったドイツ代表のミッドフィルダーであるユリアンドラクスラーは内田篤人のことを非常に高く評価しています。またブラジル代表のネイマールは単独で内田篤人を抜き去ることが難しく、苦労したことを語っています。
そんな海外でも活躍を見せていた内田篤人ですが、2014年の2月のハノーファー戦で悲劇的な怪我を負ってしまいます。痛みを感じて倒れ込んだ内田篤人ですが、当初は肉離れと診断され気楽に構えていたところ、再診によって驚くべき故障を抱えていることが分かってしまいました。
それが内田篤人が何年も悩まされ続ける事になった右膝の膝蓋腱の靭帯損傷です。この怪我はサッカー選手が本来なるような怪我ではなく、症例も極端に少ない事から内田篤人は不安を抱えながら長いリハビリを余儀なくされることになりました。
怪我を抱えたまま臨んだブラジルW杯やチャンピオンズリーグでの無理がたたり、内田篤人の怪我は悪化してしまいます。2015年にようやく手術を受け成功しましたが、2016年まで約2年の間、内田篤人はピッチに立つことができませんでした。
戻ってきた内田篤人は試合に出場することはできたものの、離脱前から考えれば出場機会がグンと減ってしまい、満足にサッカーができない環境になってしまいました。そこで内田篤人は長く在籍したチームを離れ、新たなチームへと完全移籍することになります。
経歴③ドイツサッカーチームのウニオン・ベルリンに移籍
試合に出られなければいくら強豪のチームに所属しても意味はありません。内田篤人はより出場機会が得られるチームへの移籍を決めました。それがドイツ2部のウニオン・ベルリンというチームでした。このチームの監督は内田篤人の事を高く評価しており、起用してくれる可能性が高かったからです。
しかし残念ながら、内田篤人は肉離れを起こしたことで戦線を離脱し、最終的にはこのチームを離れ日本の古巣である鹿島アントラーズでプレーする事を選択しました。ウニオンベルリンでプレーした期間は1年未満と非常に短くなっています。
経歴④日本サッカー代表選手としての活躍
内田篤人の日本代表選手としての活躍は目覚ましいものがありました。サイドバックであるため攻撃にも参加する内田篤人の天才的なオーバーラップのリズムには相手選手も戸惑っていました。あのブラジル代表のネイマールも内田篤人とマッチアップすることを嫌がるほどの守備も光っていました。
経歴⑤2018年1月より鹿島アントラーズ復帰発表
シャルケから出場機会を得るためにウニオンベルリンに移籍した内田篤人ですが、2018年1月からファン待望のJリーグ復帰を果たしました。実力としてはまだまだ海外でプレーできる水準でしたが、古巣である鹿島アントラーズに戻ってプレーすることで恩返しをしようと考えたようです。
経歴⑥雑誌「anan」登場などサッカー以外の活動
内田篤人はその甘いルックスで非常に女性人気が高いため、サッカー選手でありながら女性向け雑誌の「anan」などで特集を組まれたことがあります。大胆でセクシーな姿を披露したり、物憂げな表情で流し目をしている写真があったりと、内田篤人もノリノリだったのではないかとファンの間で話題になりました。
内田篤人の年俸の推移も調査
サッカーは他のスポーツの年俸と比較しても、非常に高額な年俸をもらうスポーツとして有名です。特に実力上位の選手ともなれば、その年俸はスポーツ選手の長者番付で上位を争うような金額にまで跳ね上がります。
また、活躍すればするほど年俸が跳ね上がっていくシステムであるため、選手によっては年俸の推移がもの凄いことになります。そして年俸の推移が凄い選手の1人が内田篤人なのです。ここからは内田篤人の年俸額の推移などを見ていきましょう。
内田篤人の年俸の推移も凄いと話題に
内田篤人のサッカー人生をチームごとに分けていくと、プロデビュー後の鹿島アントラーズ時代、ドイツのシャルケ時代、ドイツのウニオンベルリン時代、Jリーグ復帰後の鹿島アントラーズ時代に大きく分けられると思います。その中での推移を見ていきましょう。
内田篤人はプロデビュー時もドイツの移籍時も実はそこまで大きな年俸でサインしていません。しかし内田篤人はその移籍した年に大活躍を見せるため、年俸の推移が凄いことになっていると話題に挙がります。それでは内田篤人の年俸の推移について見ていきましょう。
プロサッカー選手初期の年俸の推移
内田篤人が高校卒業後の鹿島アントラーズ時代の初期の年俸は、およそ500万円程度だと言われています。内田篤人は2009年まで4年間ほど鹿島アントラーズに所属していましたが、500万、1100万、2100万と着実にステップアップし、4年目には推定年俸約3000万円にまで上がったのだそうです。
ドイツチーム移籍後の年俸の推移
内田篤人はドイツのシャルケに移籍した際の年俸は4200万と、海外移籍にしては上がり幅はそれほど多くありませんでした。しかし、サイドバックの中心選手としてスタメンに定着するとチャンピオンズリーグではチーム初となるベスト4進出に貢献し、シーズンのオフ期間には年俸7500万に釣り上げられました。
しかし内田篤人の年俸額はさらに上がることになります。着実に活躍を続け、いつの間にかシャルケ全体の中心選手になっていた内田篤人は、2014年には誰もが驚くような年俸で契約を更新することになりました。その推定年俸が約2億5000万円です。まさに内田篤人がビッグディールを受けた瞬間といえるでしょう。
内田篤人は前述した通り、その後に大怪我をしてしまい、手術やリハビリによって満足にプレーする事ができない期間が長引きました。しかし2017年に移籍したウニオンベルリンでの推定年俸の推移も2億5000万円をキープしており、内田篤人への期待が大きかったことが分かります。
内田篤人の現在は鹿島アントラーズ復帰で怪我の状況も良好
鹿島アントラーズ、ドイツのシャルケとチームの躍進に大きく貢献したものの大怪我を負ってしまいリハビリの毎日を送ってきた内田篤人ですが、現在は古巣である鹿島アントラーズに戻ってプレーを続けています。現在は怪我の影響も殆どなく、満足にプレーできているということです。