宇梶剛士の伝説まとめ!暴走族?若い頃のエピソードなども

俳優・タレント・レポーターとして人気を博してきた宇梶剛士さんの若い頃の伝説をご紹介します。宇梶剛士さんが若い頃暴走族に所属していたというエピソードを中心に、宇梶剛士さんが若い頃から現在までに築き上げてきた伝説の数々を振り返ってみましょう。

宇梶剛士の伝説まとめ!暴走族?若い頃のエピソードなどものイメージ

目次

  1. 1宇梶剛士のプロフィール
  2. 2宇梶剛士の伝説がすごい!
  3. 3宇梶剛士の伝説①ブラックエンペラー篇
  4. 4宇梶剛士の伝説②少年院とチャップリン篇
  5. 5宇梶剛士の伝説③ヒロミ篇
  6. 6宇梶剛士の若い頃の伝説的エピソード
  7. 7宇梶剛士以外の元暴走族の人気芸能人
  8. 8宇梶剛士の伝説は一言では語れない

宇梶剛士のプロフィール

・愛称:不明
・本名:宇梶剛士(うかじたかし)
・生年月日:1962年8月15日
・年齢:59歳(2021年8月現在)
・出身地:東京都新宿区
・血液型:B型
・身長:188cm
・体重:非公表
・活動内容:俳優、タレント、レポーター
・所属グループ:なし
・事務所:株式会社オフィス33
・家族構成:後述します

宇梶剛士の経歴

宇梶剛士さんは1962年8月15日に東京都新宿区で生まれました。現在も190cm近い長身で知られる宇梶剛士さんの出生時の体重は5,000gもあったため、東京都の健康優良児の表彰を受けています。学生時代に野球部に所属していた頃はプロ野球団のスカウトが視察に来るほどの実力を発揮していました。その後の経歴は後の章でご紹介します。

自叙伝『不良品』が話題に

宇梶剛士さんが2005年2月19日に上梓した自叙伝『不良品』が話題になりました。この自叙伝の中で宇梶剛士さんは暴走族に所属していた頃から俳優を志すまでの自分について包み隠さず綴っています。

宇梶剛士さんの暴走族時代の噂はそれまでも多くの人が口にしていたのですが、この自叙伝が出版された後には更に多くの人が宇梶剛士さんの過去を知る事になったのでした。宇梶剛士さんは優れた文章力で自分の若き日の姿を記し、この自叙伝は出版後20年近く経つ現在でも読まれ続けています。

宇梶剛士の伝説がすごい!

「宇梶剛士さんの伝説がすごい」と巷で評判になっています。宇梶剛士さんは自叙伝『不良品』で若い頃のエピソードの数々を紹介しましたが、その数々の伝説のエピソードがネットを通じて自叙伝を読んでいない人にも知られる事になったのです。宇梶剛士さんの伝説の始まりを見てみましょう。

宇梶剛士の伝説が話題に

宇梶剛士さんの伝説が話題になっています。前章でご紹介した自叙伝でも明かされた宇梶剛士さんには、そこに記されていないエピソードもありました。若い頃の宇梶剛士さんを知る人達から伝わってきた若い頃の宇梶剛士さんの伝説が、最近になって再び脚光を浴びているのです。

宇梶剛士の学生時代からの武勇伝が半端ない

宇梶剛士さんの学生時代からの武勇伝は「半端ない」と評されています。宇梶剛士さんは並外れた長身であるのに加えてずば抜けた運動神経を持っていました。小学生の頃からその体格と体力を活かしてリトルリーグで活躍していたのです。

宇梶剛士さんはリトルリーグでは強肩の持ち主だったためにキャッチャーをしています。その頃の宇梶剛士さんはプロ野球選手を目指していましたが、その才能は多くの人に認められ、国立オールスターズで最も強いチームのメンバーに選ばれた事もありました。

小学校時代から喧嘩が最強

宇梶剛士さんは大柄な事で喧嘩をして勝っても弱いものいじめに見えてしまう事を嫌い、自分から喧嘩を売らないようにしていました。

それでも喧嘩を仕掛けてくる人間は絶えず、小学6年生の時に中学生の不良に絡まれ、27人と喧嘩をする羽目に陥ってしまった事もありました。しかし、その時の宇梶剛士さんは27人全員に一対一の勝負を挑んで全員に勝利しています。宇梶剛士さんは小学6年生の時に最初の伝説を生み出したのです。

中学校時代には先輩達に敗北

最初の伝説を作った後の宇梶剛士さんは中学に入学しましたが、その伝説を逆恨みした27人の先輩達に囲まれ、一対一ではなく集団で袋叩きに遭っています。宇梶剛士さんは卑怯な行為を憎悪していて、暴走族時代にも卑怯な相手には手加減をせず叩きのめしていた事でも知られています。そういった感情はこの時の経験から生まれたのかも知れません。

高校時代から始まった不良の道のり

高校に入った宇梶剛士さんは既に190cm近い長身に成長してプロ球団のスカウトマンが視察に訪れていましたが、その宇梶剛士さんを待っていたのは先輩部員からの苛烈なしごきでした。

宇梶剛士さんは先輩部員に抗議したのですが、その結果排斥行為を受け、1年間まともに野球をさせてもらえませんでした。数ヶ月耐えた宇梶剛士さんですが、やがて我慢が限界に達しました。そして、先輩部員達に暴力を奮ってしまったのです。これが不良人生の第一歩でした。

宇梶剛士の若い頃は修羅場続きとの噂

宇梶剛士さんの若い頃は修羅場続きという噂があります。小学6年生の最初の伝説も修羅場の1つですが、中学時代の先輩達の一方的な暴力、高校時代の野球部先輩部員らの理不尽な行為、全てが修羅場でした。3度目の修羅場の結果、宇梶剛士さんの所属していた野球部は1年間の試合出場停止処分を受け、宇梶剛士さんは少年院に入所する事になりました。

出所後に高校を中退した宇梶剛士さんは叔父のいる北海道で働いていたのですが、更生する事ができませんでした。その結果、東京家庭裁判所から呼び出しを受け、関東に舞い戻って新たな修羅場に直面する事になったのです。それは同時に新たな伝説の始まりでもありました。

宇梶剛士の伝説①ブラックエンペラー篇

宇梶剛士さんの伝説を3章に分けてご紹介します。その1では宇梶剛士さんが総長を務めていた暴走族・ブラックエンペラーにいた頃に残した代表的な伝説の数々をご覧下さい。

暴走族「ブラックエンペラー」とは

宇梶剛士さんが所属していた「ブラックエンペラー」は、1960年代終わり頃から1992年まで活動した暴走族です。ブラックエンペラーは1976年に制作されたドキュメンタリー映画『ゴッド・スピード・ユー! BLACK EMPEROR』で更に知名度を上げ、日本最大の暴走族とも言われるほどの勢力を持つ集団になっていきました。

宇梶剛士は7代目総長

宇梶剛士さんはブラックエンペラーの7代目総長を務めていました。ブラックエンペラーに加入した宇梶剛士さんは、加入して早々に総長の座を奪いに行ったそうです。その宇梶剛士さんが総長になるまでの経緯を振り返ってみましょう。

宇梶剛士の総長になるまでの経緯

ブラックエンペラーに加入してすぐ三多摩地区の頭になった宇梶剛士さんは、6代目総長である蛯澤賢治さんがいる本部に乗り込んで総長の座を獲ろうとしました。その場は蛯澤賢治さんに諌められて総長になる事を断念しています。

しかし、1年もしないうちに宇梶剛士さんの名前は関東で知れ渡るようになり、蛯澤賢治さんが引退する時に満場一致で総長の座に就く事になりました。宇梶剛士さんが17歳でブラックエンペラーの7代目総長になった時は1000人台だったメンバーが、その後2000人に達しています。宇梶剛士さんがブラックエンペラー総長時代に築いた伝説をご覧ください。

ブラックエンペラー伝説①命懸けの1000人との戦闘

宇梶剛士さんが300人から400人の仲間と共に湘南を走っていた時、地元の暴走族1000人に絡まれた事がありました。敵は倍する戦力を持ち合わせていたのですが、宇梶剛士さんは怯みませんでした。

宇梶剛士さんの仲間は散り散りに逃げ出したのですが、宇梶剛士さんはその場に残るだけではなく、相手側のリーダーを含んだ20人ほどをあっという間に殴り倒してしまったのです。宇梶剛士さんの圧倒的な強さと迫力に怖気づいた暴走族達はその場を逃げ去り、宇梶剛士さんが1000人相手に挑んで戦ったという伝説を残したのでした。

ブラックエンペラー伝説②教習所リベンジ

宇梶剛士さんが免許を取りに自動車教習所に通っていた頃の事です。宇梶剛士さんを知らないヤンキー数人が「運転が下手」と帰り際の宇梶剛士さんを囃し立て、更に宇梶剛士さんのバイクに唾を吐きかけた事がありました。

バイクを降りた宇梶剛士さんはヤンキー達を殴り倒した末に彼らのリーダーの所へ案内させ、リーダーも屈服させました。そして彼らを教習所に行くための運転手にしたという伝説を作っています。

ブラックエンペラー伝説③日本刀で刺され大怪我説

宇梶剛士さんは敵対していたグループに休戦を持ちかけられ、話し合いの場に向かいました。そこで相手側のメンバーに日本刀で刺されて大怪我を負ったのです。

退院した宇梶剛士さんは復讐を企図しましたが、その抗争で確実に死者が出ると確信した元総長や支部長達に押し止められ、復讐を断念する事となりました。その代わり、相手グループに謝罪とけじめを付けさせて事態を収めています。

ブラックエンペラー伝説④ヤクザからのスカウト

数々の伝説を打ち立ててきた宇梶剛士さんには、リトルリーグ時代にプロ球団のスカウトマンに熱い視線を投げかけられたのと同じように、極道の世界からの誘いの手が伸びてきました。

ヤクザなど裏社会に生息する人々からのスカウトが次から次へと舞い込んできたのです。しかし、宇梶剛士さんは暴力が好きな不良ではなかったので、暴力を使って相手を従わせる組織には強い嫌悪感を抱いていたため、スカウトに応じる事はありませんでした。

ブラックエンペラーと関東連合の関係は?

ブラックエンペラーと関東連合の関係も巷の関心を集めています。暴走族同士の抗争に明け暮れていたブラックエンペラーは、やがて同じ暴走族を相手にするのではなく、一般人を相手に恐喝や暴行を働き、果ては殺人までするような集団と成り果てました。

宇梶剛士さんが憎悪するような存在になったブラックエンペラーが関東連合と名を変えたのです。凶悪犯罪を次々とおかしていた関東連合は、中心メンバーの逮捕や国外逃亡によって弱体化していき、2003年に解散しています。

宇梶剛士の伝説②少年院とチャップリン篇

宇梶剛士さんの伝説・その2をご紹介します。この章でご紹介するのは少年院時代の宇梶剛士さんの伝説です。暴走族から俳優という転身を遂げた宇梶剛士さんでしたが、そのきっかけとなったチャップリンさんとの出会いを見てみましょう。

宇梶剛士18歳で少年院送り

宇梶剛士さんは18歳の時にブラックエンペラーと他の暴走族との抗争で再び逮捕されて家庭裁判所に送られ、その後少年院に収容されました。2度目の少年院生活時代の宇梶剛士さんは精神的に打ちのめされていましたが、ここで人生を大きく変える出会いがあったのです。

少年院でのチャップリン伝説とは

伝説の暴走族と言われる宇梶剛士さんが少年院で出会ったのは、伝説の俳優・チャップリンさんでした。チャップリンさんと直接対峙したのではなく、チャップリンさんの自伝を読んでそれまでの物事の捉え方や考え方がひっくり返るような衝撃を受けたのです。

チャップリンさんの自伝を通じたチャップリンさんとの出会いは、当時の宇梶剛士さんにとっては天地が逆転するような衝撃だったのでした。

母親からチャップリンの本の差し入れ

宇梶剛士さんは、アイヌ民族の出身で人権運動に身を投じて留守がちだった母親と接する機会があまりありませんでした。その母親が少年院にいる宇梶剛士さんにチャップリンさんの自伝本を差し入れたのです。その本を自分に与えた母親の気持ちを計りかねながらも読み始めた宇梶剛士さんは、チャップリンさんの生き様にショックを与えられました。

伝説の俳優であるチャップリンさんは、幼い頃からの貧乏暮らしなど逆境の中にありながらも努力と修行を続けていました。その結果伝説の存在となった事に、社会に背を向けて暴走族になった自分との違いを思い知らされたのでした。

チャップリンが宇梶剛士の俳優人生の始まり

チャップリンさんの生涯と自分のこれまでの生き方の違いに衝撃を受けながら読んでいくうち、宇梶剛士さんは胸が熱くなり、涙が止まらなくなりました。そして、自分のこれまでの生き方を心から反省する気持ちが湧き上がり、「これじゃいけない。間違っている」と痛感したのです。

そして、チャップリンさんの自伝本を読み終えた後に「俳優になろう」と決意を固めたのでした。伝説の暴走族が伝説の俳優に出会った事によってその心と運命を大きく揺り動かされたのです。

少年院出所後のバスケ部での伝説

伝説の俳優・チャップリンさんに運命を変えられた伝説の暴走族・宇梶剛士さんは、少年院出所後間もなく新たな伝説を作っています。

出所後の宇梶剛士さんは明治大学付属中野高等学校定時制に編入したのですが、そこでバスケットボール部に入部し、持ち前の素晴らしい運動神経を駆使してチームを都大会で優勝を飾るほどの競合チームに作り上げたのです。伝説の暴走族は暴走族をやめても新たな伝説を生んだのでした。

宇梶剛士の伝説③ヒロミ篇

宇梶剛士さんの伝説・その3をご紹介します。この章では、宇梶剛士さんと同じように暴走族に所属していた事で知られるヒロミさんにまつわる伝説をチェックしてみましょう。ヒロミさんにとって宇梶剛士さんはどんな存在だったのでしょうか?

ヒロミとは

ヒロミさんは1965年2月13日に東京都八王子市で生まれました。18歳の時に自動車事故で死にかけた後、母親に「あなたは長生きできないかも知れないから好きな事をしなさい」と言われた事がきっかけでお笑い芸人の道に進む事を決意し、デビット伊東さんとミスターちんさんをスカウトしてお笑いトリオ・B21スペシャルを結成して一斉を風靡しました。

1990年にゴールデンアロー賞の芸能新人賞を受賞し、同年歌手デビューして翌年には俳優活動も開始しています。

ヒロミは元暴走族「八王子スペクター」に所属

ヒロミさんは子供の頃は恥ずかしがり屋で大人しい少年だったのですが、やんちゃだった兄の影響で中高生の頃は地元の暴走族「八王子スペクター」に所属していました。その頃の事についてはバラエティ番組などのトークのネタにしています。

宇梶剛士さんのような伝説的な暴走族ではなく、逮捕歴はありません。恐喝をしていたと明かしていますが、その手口は逮捕されるほど悪質ではなかったようです。

ヒロミも恐れる宇梶剛士

ヒロミさんも宇梶剛士さんを恐れているそうです。ヒロミさんが暴走族だった時代、宇梶剛士さんは非常に有名だったとも語っています。

ヒロミさんは先輩芸人とも大物芸能人ともフランクにタメ口で話す事で知られているのですが、宇梶剛士さんに対してだけは敬語以外では話せないそうです。このエピソードだけでヒロミさんがどれほど宇梶剛士さんに畏敬の念を抱いているかがわかります。

若い頃のヒロミとの交流はあった?

暴走族に所属していた若い頃の宇梶剛士さんとヒロミさんの交流があったのかも調査しました。若い頃には宇梶剛士さんとヒロミさんの交流はなかったそうです。

当時のヒロミさんにとって、当時日本最大の暴走族だったブラックエンペラーの総長を務めていた宇梶剛士さんは、到底手の届かない、まさに生ける伝説といった存在だったのです。現在もその思いが根強く残っているので、宇梶剛士さんに対しては自然と敬語になってしまうのでしょう。

宇梶剛士の若い頃の伝説的エピソード

宇梶剛士さんの伝説を一通りご覧いただいた後は、宇梶剛士さんの若い頃の伝説的エピソードをご覧下さい。宇梶剛士さんが現在に至る道筋を作り上げる力となった人達との出会いを見てみましょう。

若い頃のエピソード【菅原文太に弟子入り】

宇梶剛士さんが俳優として活動を開始したのは菅原文太さんに弟子入りしたのがきっかけでした。錦野旦さんの付き人をしていた宇梶剛士さんに目を留めた菅原文太さんが錦野旦さんの所属事務所に掛け合って自分の弟子にしたのです。

当時は服装にも気を付けていた宇梶剛士さんが元暴走族である事は誰にも悟られていなかったのですが、菅原文太さんは宇梶剛士さんの常人とは違う雰囲気を見抜いたのでした。そんな菅原文太さんを宇梶剛士さんは「オヤジ」と呼んで慕っていました。

菅原文太とは

宇梶剛士さんを弟子にした菅原文太さんは、1933年8月16日に生まれ、178cmの長身を活かす仕事としてモデルを始めた後、俳優に転校しました。

強面系のイケメンだった菅原文太さんの人気は39歳の時に出演した映画『仁義なき戦い』の大ヒットで不動のものとなり、『仁義なき戦い』シリーズと『トラック野郎』シリーズで大人気を博したのでした。2009年に俳優を引退して農業従事者になり、2014年11月28日に81歳でこの世を去っています。

菅原文太の弟子入りからの俳優人生

菅原文太さんに弟子入りしてから俳優人生を歩み始めた宇梶剛士さんは、菅原文太さんとのあるやりとりが忘れられないそうです。菅原文太さんに過去の事を聞かれた時、宇梶剛士さんは素直に肯定しました。

それに対して菅原文太さんは「この世界ではどんな理由があっても暴力を振るえば退場だ」と諭した上で「だがな、どうしても許せないと思う事があったら暴れたら良い。そして去れ」と語ったのです。その言葉は、俳優人生の間でどうしようもなく腹が立った時に蘇って宇梶剛士さんに俳優を続けさせたのでした。

若い頃のエピソード【美輪明宏が発掘】

菅原文太さんに弟子入りして2年経った頃に宇梶剛士さんは美輪明宏さんに出会いました。美輪明宏さんの舞台に心を奪われ、「舞台に挑戦するので事務所を辞めたい」と菅原文太さんに申し出たのです。菅原文太さんには「離れていってもお前は弟子だから。いつでも顔を出せ」と送り出されました。

美輪明宏とは

宇梶剛士さんが師事した美輪明宏さんは、1935年5月15日に長崎県長崎市で生まれ、15歳の時に歌手を目指して上京しました。しかし、父に絶縁された事で通っていた音楽学校を中退し、進駐軍のキャンプを廻って歌を披露して生活費を稼ぐようになっています。

その後シャンソン喫茶「銀巴里」と歌手として専属契約を結び、そこで多くの文化人の支持を得てその美貌と歌の才能で名を挙げていきました。俳優活動を始めてからはその才能も高く評価されています。

美輪明宏との出会いと初舞台

美輪明宏さんと初めて出会った時、美輪明宏さんは宇梶剛士さんを見て「暗い道を歩いてきたのね」と言ったそうです。その言葉に救われた宇梶剛士さんは、その後に観た美輪明宏さんの舞台で美輪明宏さんのところへ行く決心をしました。

そして、美輪明宏さんの元で寺山修司さんが作った『青森県のせむし男』で初舞台を踏んだのです。宇梶剛士さんは、「美輪さんに出会ってなければここにいない。グレートマザーみたいな存在」と述懐しています。

若い頃のエピソード【渡辺えりからの指導】

美輪明宏さんの舞台で才能を表した宇梶剛士さんは、やがて美輪明宏さんに渡辺えりさんを紹介され、渡辺えりさんが主宰する劇団「3○○」に入団しました。舞台で修行を積んでいる頃は無名でいわゆる下積みの生活を送っていましたが、渡辺えりさんの指導の元で芸歴を重ねていきました。

渡辺えりとは

宇梶剛士さんの3人目の師匠と言える渡辺えりさんは、1955年1月5日に山形県山形市で生まれ、1978年にもたいまさこさん達と共に「劇団2○○」を結成しました。

その後「劇団3○○」に改名した劇団は1997年に解散しましたが、2001年に「宇宙堂」を結成して原作と演出と出演の三役を担うようになっています。TVドラマや映画に出演するようになった後は引っ張りだことなり、数々の作品で観る人の心を惹きつけてきました。

渡辺えりから猛特訓?

「劇団3○○」に入団した宇梶剛士さんは渡辺えりさんの猛特訓を受けました。元暴走族だった宇梶剛士さんは座る時に体を斜めにするなどの癖が染み付いていたため、渡辺えりさんに叱責されていたそうです。

しかし、宇梶剛士さんは「尊敬している渡辺えりさんだったからこそ厳しい指導も受け入れる事ができた」と後年になって語っていました。「(渡辺えりさんには)未だに頭が上がらない」と幾度となく語っています。

若い頃のエピソード【鰐淵春樹】

若い頃のエピソードには「鰐淵春樹」という人名もあります。こちらは実在した人物ではなく、宇梶剛士さんがTVドラマや映画や舞台で演じた役の名前でもありません。宇梶剛士さんと関連付けて語られる事が多い「鰐淵春樹」というのは何者なのかを見てみましょう。

漫画『疾風伝説 特攻の拓』鰐淵春樹のモデル?

「鰐淵春樹」というのは1991年から1997年まで『週刊少年マガジン』で連載された人気漫画『疾風伝説 特攻の拓』のキャラクターの名前です。

いじめられっ子だった主人公が転校先で暴走族になるという筋立ての物語で、鰐淵春樹は主人公が関わるようになる暴走族・夜叉神の総長です。この鰐淵春樹が若い頃の宇梶剛士さんをモデルにしているというのは、漫画界では有名な話なのです。

宇梶剛士と鰐淵春樹を比較

宇梶剛士さんと鰐淵春樹を比べてみましょう。鰐淵春樹は他の暴走族にも強い影響力を持つ少年で、1000人を超える暴走族を束ねています。18歳とは思えない貫禄と冷静さを持ち合わせているところが宇梶剛士さんと似ていると指摘されていました。鰐淵春樹は宇梶剛士さんのような美男子ではありませんが、姿形も暴走族時代の宇梶剛士さんと少し似ています。

若い頃のエピソード【パパイヤ鈴木が共演でビビり?】

パパイヤ鈴木さんは若い頃の宇梶剛士さんと関わりがありました。その頃の宇梶剛士さんはパパイヤ鈴木さんを本名の下の名前「寛」で呼んでいたのですが、パパイヤ鈴木さんはどれほどフランクな宇梶剛士さんでも目を合わせるのも怖かったそうです。

その頃の気持ちに今でも引きずられているのか、宇梶剛士さんと2015年3月12日に放映された『ごきげんよう』で共演した時に「今でもビビっている」と告白しています。

パパイヤ鈴木とは

若い頃の宇梶剛士さんと関わっていたパパイヤ鈴木さんは、1966年6月29日に東京都東久留米市で生まれ、松任谷由実さんのライブツアーにダンスコーディネーターの役割を担うスタッフとして参加するなど、ダンスの実力で次第に人気を高めていきました。

TVで「パパイヤ鈴木」としてブレイクした後は、数多くのバラエティに出演して人気を更に集め、現在は同世代の中年を集めたダンスユニット「パパイヤ鈴木とおやじダンサーズ」でも活躍しています。

パパイヤ鈴木は高校時代の後輩

宇梶剛士さんとパパイヤ鈴木さんの関係を解説します。前々章でご紹介したように、宇梶剛士さんは少年院を出た後に編入した明治大学付属中野高等学校の定時制に編入しました。パパイヤ鈴木さんはこの高校で宇梶剛士さんの後輩でした。

『ごきげんよう』で共演した時のパパイヤ鈴木さんは番組が始まった時に宇梶剛士さんに対して非常にうやうやしく接していて、出演者と視聴者を驚かせ、笑わせたのです。

若い頃のエピソード【恋愛下手?】

宇梶剛士さんの若い頃のエピソードから恋愛にまつわる話題を見てみましょう。誰もが認める高身長イケメン男性の宇梶剛士さんですが、若い頃から現在までに熱愛を報じられた事がありません。

宇梶剛士さんが女性より男性が好きだという噂が浮上した事もありますが、宇梶剛士さんは結婚しているので、その説は否定されています。女嫌いではないけれど恋愛が下手なのでしょうか?

若い頃の弱点は女?

宇梶剛士さんの若い頃の弱点は女だったと宇梶剛士さんが告白しています。これまでにご紹介したように腕っぷしは非常に強く度胸も人一倍あった宇梶剛士さんでしたが、女性が側にくると意識しすぎて顔が引きつってしまっていたそうです。宇梶剛士さんはその頃の自分について「あの頃の自分を抱きしめてやりたいよ」と笑っていました。

宇梶剛士の若い頃の恋愛事情を調査

女が弱点だった宇梶剛士さんの若い頃の恋愛事情を調査しましたが、前述したように宇梶剛士さんは若い頃から現在までスキャンダルが全くありません。「宇梶剛士さんが理想のタイプ」と語っている女性芸能人が数人確認できただけで、宇梶剛士さんから女性にアプローチしたという記録は見つける事ができなかったのです。

宇梶剛士の結婚歴や子供について

宇梶剛士さんの結婚歴や子供について見てみましょう。宇梶剛士さんはこれまでに2度結婚しています。最初の結婚は20歳の時でした。しかし、22歳の時に離婚してしまい、その後に2度目の結婚をしています。

結婚相手はどちらも一般女性で、顔や年齢、生年月日など個人情報に関わる情報は一切公開されていませんでした。最初の妻との間には男の子が生まれ、再婚相手との間には娘が生まれています。子供達も一般人なので、個人情報は非公表になっていました。

宇梶剛士以外の元暴走族の人気芸能人

宇梶剛士さんの伝説が世間で注目を集めていますが、宇梶剛士さんと同じように暴走族に所属していた経歴を持つ芸能人は複数人確認されています。その中から特に人気が高い芸能人3人の暴走族時代のエピソードをご覧下さい。

元暴走族の人気芸能人【佐田正樹(バッドボーイズ)】

佐田正樹さんも芸能界では有名な元暴走族芸能人です。バッドボーイズというコンビを組んでいるのでファッションでリーゼントをしているのではなく、本物の元暴走族という事でも世間の注目を集めてきました。

佐田正樹さんは中学3年生の時に学校の番長になり、高校2年生の時には福岡県で最大の暴走族だった幻影のメンバー400人のトップに立っています。その佐田正樹さんが福岡県警に逮捕された時には警察署内がお祭り騒ぎになったという伝説を残しました。

元暴走族の人気芸能人【瀧川鯉斗】

イケメン落語家と話題の瀧川鯉斗さんも元暴走族の総長を務めていた事をカミングアウトしています。高校を1年で退学した後に暴走族の総長になり、その後落語家に弟子入りして落語家になるという破天荒な半生を自叙伝『特攻する噺家』に綴ったのです。

2019年に真打ちになったのが自叙伝出版のきっかけだと語る瀧川鯉斗さんは、「こんな奴でも落語家になれる事を知って落語に興味を持ってもらえたら嬉しい」と語っていました。そんな瀧川鯉斗さんは伝説の総長から伝説の落語家になるのかも知れません。

元暴走族の人気芸能人【小泉今日子】

最後にご紹介する元暴走族の人気芸能人は小泉今日子さんです。多くのヒットを飛ばした伝説のアイドルは、暴走族・レディースの総長だったという過去を持っています。

地元の厚木市でも最大の勢力と言われていたレディースの総長だった小泉今日子さんは、抗争の時には腕力と威圧感を武器に戦っていた事もあったそうです。その後『スター誕生!』のオーディションを受けた時にもボンタンのようなデニムを履いて現れ、他の出場者を圧倒するという伝説を作りました。

宇梶剛士の伝説は一言では語れない

宇梶剛士さんの伝説は一言では語れないほどのボリュームとクオリティがありました。宇梶剛士さんの若い頃を知っている芸能人が今でも宇梶剛士さんを恐れているように、宇梶剛士さんと抗争を繰り広げた事のある人間達は、TVで観る宇梶剛士さんのコミカルな姿にも、昔日の伝説的存在だった宇梶剛士さんを思い出して震え上がっているのかも知れません。

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この記事のライター
fuyuhome
漫画とゲームが好きです。 最近は古いドラマを発掘して観るのにはまっています。 昔の俳優、今の俳優、どちらも違う...

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