宇野重吉の死因は?若い頃からの経歴や嫁などの家族も!

昭和を代表する俳優として活躍した宇野重吉さんの死因は何だったのでしょうか?宇野重吉さんの若い頃からの経歴も気になるところです。宇野重吉さんの嫁や子供などの家族についても調査しました。宇野重吉さんの死因や若い頃からの経歴、嫁や子供などの家族について紹介します。

宇野重吉の死因は?若い頃からの経歴や嫁などの家族も!のイメージ

目次

  1. 1宇野重吉のプロフィール
  2. 2宇野重吉の死因は?
  3. 3宇野重吉の若い頃からの経歴【厳選】
  4. 4宇野重吉の嫁や子供などの家族も調査
  5. 5宇野重吉以外の昭和名俳優の若い頃
  6. 6宇野重吉は肺癌で他界した昭和の名俳優

宇野重吉のプロフィール

・愛称:???
・本名:寺尾信夫(てらおのぶお)
・生年月日:1914年9月27日
・年齢:享年73歳(1988年1月9日没)
・出身地:福井県足羽郡下文殊村
・血液型:非公表
・身長:非公表
・体重:非公表
・活動内容:俳優、演出家、映画監督
・所属グループ:劇団民藝
・事務所:不明
・家族構成:妻、長女、次女、長男(寺尾聰)

宇野重吉の経歴

宇野重吉さんは第2次世界大戦前から俳優として活動し、戦後も劇団民藝を創設するなど、日本の演劇界を牽引してきました。また、俳優だけではなく、演出家や映画監督としても活躍。「病妻物語 あやに愛しき」や「硫黄島」などが宇野重吉さんの監督作品なのだそうです。

宇野重吉さんの俳優としての代表的な出演作品には「愛妻物語」や「第五福竜丸」、「男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け」などがあります。宇野重吉さんは亡くなるギリギリまで舞台に立ち続けましたが、1988年1月9日に死去。享年は73歳でした。

宇野重吉と共産党の関係とは

宇野重吉さんといえば、共産党との関係も話題になっていたようです。宇野重吉さんは1935年に演劇活動と並行して共産主義の左翼活動にも参加するようになりました。俳優として人気を集めつつあった宇野重吉さんですが、1938年頃からは共産党員としての活動が主になっていったそうです。

当時は第2次世界大戦に突入した頃で、思想に対する取り締まりも厳しくなっていました。特に共産主義者は「アカ」と呼ばれ、厳しく取り締まられていたようです。宇野重吉さんは1940年に治安維持法違反で逮捕・投獄されてしまいます。詳しい出所時期は不明ですが、1942年頃には出所していたようでした。

宇野重吉と石原裕次郎の関係

宇野重吉さんと石原裕次郎さんの関係について見ていきましょう。共に俳優として活動した宇野重吉さんと石原裕次郎さんですが、2人はどのような関係だったのでしょうか?宇野重吉さんと石原裕次郎さんの関係について調べてみました。

石原裕次郎とは

宇野重吉さんとの関係が気になる石原裕次郎さんのプロフィールを紹介しましょう。石原裕次郎さんは1934年12月28日に兵庫県神戸市須磨区に誕生しました。兄の石原慎太郎さんが芥川賞を受賞した「太陽の季節」で俳優としてデビュー。その後、石原慎太郎さん原作の「狂った果実」にも出演し、初主演をつとめました。

1963年には石原プロモーションを設立。「黒部の太陽」や「栄光への5000キロ」などの作品を世に送り出しました。また、1970年代以降には「太陽にほえろ!」や「大都会」シリーズ、「西部警察」シリーズなどの作品をプロデュースし、石原裕次郎さん自身も俳優として出演しました。

石原裕次郎との俳優時代の関係

宇野重吉さんと石原裕次郎さんの俳優時代の関係についても見ていきましょう。宇野重吉さんは石原裕次郎さんの恩人だという情報があるのだそうです。石原裕次郎さんが率いる石原プロモーションの代表作「黒部の太陽」の制作の際、セットにお金がかかりすぎ、出演者へのギャラがごく僅かになってしまったのだとか。

この時に石原裕次郎さんを助けたのが宇野重吉さんでした。宇野重吉さんは自ら出演するだけではなく、主宰する劇団民藝の全面協力を約束し、必要な装置なども貸し出したのだそうです。おかげで「黒部の太陽」は完成。文部省の推薦映画にも選ばれました。

宇野重吉の死因は?

宇野重吉さんの死因について見ていきましょう。宇野重吉さんはどのような死因で亡くなられたのでしょうか?宇野重吉さんの死因について調べてみました。

1988年に宇野重吉が他界

宇野重吉さんが亡くなられたのは1988年のことでした。宇野重吉さんは亡くなる前年の1987年に手術を受けていたのですが、その後、医師の反対を押し切って舞台に出演。1987年12月に上演された「馬鹿一の夢」への主演が最後の舞台となりました。

宇野重吉の死因は肺癌

宇野重吉さんの死因については肺癌と公表されているようです。宇野重吉さんは左の肺を癌に冒されていたのだそうです。そのため、手術を受けたとのこと。ただ、手術後の無理がたたったためか、最後の舞台を終えてほどなく入院。その翌月に亡くなられました。

死因となった肺癌の症状とは

宇野重吉さんの死因となった肺癌にいて解説しましょう。宇野重吉さんの死因となった肺癌は、気管支や肺胞の細胞が癌化することを言います。肺癌は無症状であることも多く、発見されたときには手遅れということも少なくないのだとか。

肺癌の主な症状としては、咳や痰、痰に血が混じるということなどがあるようです。また、動悸や胸痛などの症状が出ることもあるとのこと。早期の発見の場合は手術をして癌を取り除くという治療を行うことが多いようです。

肺癌発覚後も酸素吸入をしての公演

先ほども少し紹介しましたが、宇野重吉さんは肺癌が発覚し、手術を受けた後にも舞台に立ち続けました。この時には点滴を受け、幕間に酸素吸入をしながらの出演だったそうです。

宇野重吉さん1985年に「宇野重吉一座」を立ち上げており、この地方公演の最中に癌が発覚したとのこと。こうした事情もあり、宇野重吉さんは座長としての責任から、長く舞台に穴を開けることはできないと考えたのかもしれません。

宇野重吉の遺作は舞台『馬鹿一の夢』

宇野重吉さんの遺作となったのは、亡くなる前月に上演された劇団民藝の舞台「馬鹿一の夢」でした。これは東京の三越劇場で上演されたもので、宇野重吉さん自身が演出、出演していた作品です。この公演の際にも宇野重吉さんは楽屋で酸素吸入を受けながら舞台に立たれていました。

宇野重吉の若い頃からの経歴【厳選】

宇野重吉さんの若い頃からの経歴についても見ていきましょう。宇野重吉さんは若い頃から俳優として活躍していましたので、その作品は数多くあります。宇野重吉さんの若い頃からの出演経歴を厳選してお伝えします。

若い頃からの経歴:「プロレタリア演劇研究所」に入所

宇野重吉さんは若い頃、「プロレタリア演劇研究所」に入所したという経歴があるそうです。「プロレタリア演劇研究所」というのは、1930年代のプロレタリア文化運動の組織とのこと。文学・演劇・美術・映画などのプロレタリア文化運動を広く推進するという活動をしていたようです。

ただ、1930年代には思想の取り締まりも強くなっており、「プロレタリア演劇研究所」の機関誌なども発禁が相次いでいたのだとか。1934年には組織の解散命令が出され、「プロレタリア演劇研究所」は解散したそうです。

若い頃からの劇団歴もすごい

宇野重吉さんは若い頃からの劇団歴もすごいようです。宇野重吉さんは1933年に「東京左翼劇場」に参加。さらに翌年の1934年には「新協劇団」の結成にも参加しています。1942年には宇野重吉さん自身が「瑞穂劇団」を立ち上げました。また、1950年には「劇団民藝」を創立しています。

若い頃からの経歴:初主演映画は『痴人の愛』

宇野重吉さんは若い頃、映画にも多数出演してきました。宇野重吉さんの映画初主演作品は1949年に公開された「痴人の愛」です。「痴人の愛」は谷崎潤一郎さんの小説が原作となった作品で、宇野重吉さんは独身の電気技師・河合譲治役を演じています。この作品で宇野重吉さんの相手をつとめたヒロイン役は京マチ子さんが演じていました。

若い頃からの経歴:映画『愛妻物語』で主演

宇野重吉さんの映画での代表作の1つが「愛妻物語」です。「愛妻物語」は1951年に公開されました。宇野重吉さんは映画「愛妻物語」で沼崎敬太役を演じていたとのこと。この作品で宇野重吉さんの妻役を演じたのは乙羽信子さんでした。

若い頃からの経歴:映画『第五福竜丸』で主演

宇野重吉さんの代表作の1つとして知られるのが1959年に公開された映画「第五福竜丸」です。宇野重吉さんはこの作品で、第五福竜丸の無線長・久保山愛吉役を演じていました。映画「第五福竜丸」は、アメリカの水爆実験によりビキニ環礁付近で被爆した第五福竜丸の乗組員の実話を元にした作品です。

若い頃からの経歴:大河ドラマ『赤穂浪士』に出演

宇野重吉さんはNHKの大河ドラマにも出演しています。1964年には「赤穂浪士」に出演しました。宇野重吉さんは「赤穂浪士」で江戸の大盗賊・蜘蛛の陣十郎を演じています。宇野重吉さんは「赤穂浪士」の他にも「天と地と」、「黄金の日日」、「峠の群像」などの大河ドラマに出演していたようです。

宇野重吉の嫁や子供などの家族も調査

宇野重吉さんの嫁や子供などの家族についても見ていきましょう。宇野重吉さんの嫁はどのような人なのでしょうか?また、子供は何人いるのでしょう?宇野重吉さんの嫁や子供などの家族について紹介します。

宇野重吉の嫁は一般女性との噂

まずは宇野重吉さんの嫁の情報について見ていきましょう。宇野重吉さんの嫁は芸能人などではなく一般人だと言われています。そのため、宇野重吉さんの嫁に関する情報はほとんどないようでした。また、結婚した時期についてもよく分かっていません。

嫁の名前は志保で馴れ初めは駆け落ち?

宇野重吉さんの嫁の情報で唯一分かっているのが、名前が「志保」である可能性が高いということのようです。また、2人の馴れ初めについては駆け落ちだったという情報があります。交際のきっかけは宇野重吉さんが嫁に一目惚れしたことだったのだとか。

当時の宇野重吉さんはまだ駆け出しの俳優だったそうで、家族に結婚を反対されたようでした。そのため、駆け落ち同然の状態で結婚したと言われています。

嫁との間に子供は3人

宇野重吉さんと嫁の間に誕生した子供についても見ていきましょう。調べてみたところ、宇野重吉さんと嫁の間には3人の子供が誕生しているようでした。3人の子供は女の子が2人、男の子が1人とのことです。

子供(長女)の名前や経歴は?

まずは宇野重吉さんの長女の情報について見ていきましょう。宇野重吉さんの長女は芸能活動をした経歴はないようで、ほとんど情報がありませんでした。おそらく現在も一般人として生活しているものと考えられます。

子供(次女)の名前や経歴は?

続いては宇野重吉さんの次女の情報について見ていきましょう。宇野重吉さんの次女も芸能活動はされていないようで、一般人のようでした。そのため、名前や職業など紹介できるような情報は公開されていないようです。

子供(長男)は寺尾聡

宇野重吉さんの長男は俳優として活躍する寺尾聰さんです。寺尾聰さんのプロフィールを少し紹介しましょう。寺尾聰さんは1947年5月18日生まれで現在の年齢は74歳、俳優やミュージシャンとして活躍しています。

寺尾聰さんは1966年にフォークグループ「ザ・サベージ」のベースギターとして「いつまでもいつまでも」で芸能界デビュー。その後、映画「黒部の太陽」で俳優デビューしました。このことがきっかけで寺尾聰さんは石原プロモーションに入社し、石原軍団の若手有望株として「西部警察」などさまざまなドラマに出演しています。

子供(寺尾聡)との共演歴も調査

宇野重吉さんと子供である寺尾聰さんの共演歴についても見ていきましょう。宇野重吉さんと寺尾聰さんはいくつかの作品で共演経歴があるようです。宇野重吉さんと寺尾聰さんの親子共演歴を調べてみました。

共演歴:映画『黒部の太陽』

まずは1968年に公開された映画「黒部の太陽」です。この作品では、先ほども紹介したように宇野重吉さんが石原裕次郎さんを助ける形でキャストやセットなどの協力を申し出ています。その過程で、息子である寺尾聰さんの出演も決まったようでした。

共演歴:映画『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』

続いての宇野重吉さんと寺尾聰さんの共演作品は、1976年に公開された映画「男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け」です。この作品で宇野重吉さんは池ノ内青観役、寺尾聰さんは観光係員役として出演していました。

子供(寺尾聡)と石原裕次郎の関係

宇野重吉さんの子供・寺尾聰さんと石原裕次郎さんの関係についても見ていきましょう。寺尾聰さんが石原プロモーションに入ることになったのは、宇野重吉さんが石原裕次郎さんに「預けた」ことがきっかけだったようです。

石原裕次郎さんは寺尾聰さんが恩義のある宇野重吉さんの息子ということもあり、寺尾聰さんに対して寛容だったのだとか。寺尾聰さんは「自由にやらせてもらった」と当時のことを振り返っていました。

宇野重吉以外の昭和名俳優の若い頃

宇野重吉さん以外の昭和の名俳優の若い頃について見ていきましょう。宇野重吉さん以外の昭和を代表する名俳優たちの若い頃はどのようなものだったのでしょうか?

昭和名俳優の若い頃【高倉健編】

まずは高倉健さんの若い頃について見ていきましょう。高倉健さんの若い頃は英語とボクシングに夢中で、喧嘩に明け暮れていた日々もあったようです。その後、俳優としての道を歩み始めますが、俳優座演技研究所時代には落ちこぼれだったという情報もありました。

昭和名俳優の若い頃【勝新太郎編】

勝新太郎さんの若い頃についても見ていきましょう。勝新太郎さんの若い頃は大映のスター候補として注目を集めていたようです。ただ、当時は市川雷蔵さんが人気を誇っており、勝新太郎さんは2番手に甘んじていたとのこと。1960年頃から汚れ役を演じるようになり、人気俳優の仲間入りを果たしたそうです。

昭和名俳優の若い頃【津川雅彦編】

津川雅彦さんの若い頃についても見ていきましょう。津川雅彦さんの若い頃はかなりのイケメンだったことで知られています。俳優デビュー作である「狂った果実」で石原裕次郎さんの弟役を演じ、二枚目俳優としてスターの仲間入りを果たしました。

宇野重吉は肺癌で他界した昭和の名俳優

昭和の名俳優として知られた宇野重吉さんの死因や経歴、家族などについて紹介してきました。宇野重吉さんの死因は肺癌だったとのこと。宇野重吉さんは肺癌で亡くなる直前まで舞台に立ち続けていました。

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この記事のライター
春日つぼね

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