鰐淵晴子(女優)の現在!若い頃や娘や母は?鰐淵晴子の経歴まとめ

若い頃はその美貌で多くの男性を虜にして活躍していた鰐淵晴子。鰐淵晴子はバイオリニストで女優と言う異色の経歴の持ち主ですが、現在は一体どうしているのでしょうか?鰐淵晴子の若い頃から現在までの経歴について詳しく見て行きましょう。

鰐淵晴子(女優)の現在!若い頃や娘や母は?鰐淵晴子の経歴まとめのイメージ

目次

  1. 1鰐淵晴子のプロフィール
  2. 2鰐淵晴子は天才少女バイオリニストで元子役
  3. 3鰐淵晴子は子役時代からも数々の賞を受賞
  4. 4鰐淵晴子は若い頃にヌード写真集も
  5. 5鰐淵晴子の娘は鰐淵理沙
  6. 6鰐淵晴子は現在も変わらず音楽一家で孫もいる

鰐淵晴子のプロフィール

・愛称:???
・本名:鰐淵晴子
・生年月日:1945年4月22日
・年齢:74歳(2019年5月現在)
・出身地:東京都
・血液型:???
・身長:165㎝
・体重:45㎏
・活動内容:女優、歌手、バイオリニスト
・所属グループ:なし
・事務所:アートプロモーション
・家族構成:鰐淵理沙(娘)
・代表作品:「ノンちゃん雲に乗る」他多数

鰐淵晴子の経歴

まずは鰐淵晴子の簡単な経歴から見て行きましょう。鰐淵晴子はオーストラリア人の母と日本人の父を持つハーフで、日独ハーフやドイツ系と表記される事もあります。そんな鰐淵晴子は3歳から父の影響を受けてバイオリンの英才教育を受け、8歳の頃には既に「天才少女バイオリニスト」と騒がれるようになります。

バイオリニストとして若い頃から注目を集めていた鰐淵晴子ですが、1952年には「母子鶴」と言う映画に出演し子役としても活動を開始する事となります。1955年には「ノンちゃん雲に乗る」と言う映画にノンちゃん役と言う出演し、これにより女優としての活動を本格的に開始する事となります。

1959年には「乙女の祈り」と言う松竹映画に主演し、これがきっかけで鰐淵晴子は松竹と専属契約を交わします。鰐淵晴子は「1960年代前半の松竹を代表するスター」と称される活躍を見せていき、正統派美人として「原節子の再来」と呼ばれるほどの大物女優へと成長していきます。

また、鰐淵晴子はバイオリニストとして世界中で活躍していた事もあり英語やドイツ語が堪能である事が知られています。これを認められ、1956年冬季オリンピックのアルペン三冠王となったオーストラリアのトニー・ザイラーを主演にした映画「銀嶺の王者」では主演の相手役にも抜擢されています。

1995年には「平成無責任一家 東京デラックス」「遙かな時代の階段を」「眠れる美女」の映画3作品に出演し、鰐淵晴子は個性的な役柄を演じ毎日映画コンクール女優助演賞を受賞する活躍を見せています。このように鰐淵晴子は様々な才能に恵まれ、若い頃には多くの男性を虜にして活躍していた人物なのです。

鰐淵晴子は天才少女バイオリニストで元子役

ここからは鰐淵晴子の若い頃の活躍についてご紹介していきますが、まずは鰐淵晴子の幼少期から見て行きましょう。鰐淵晴子は若干8歳にして「天才少女バイオリニスト」として注目され、さらには子役としてお芝居の世界でも活躍する忙しい幼少期を送っていたようです。

鰐淵晴子の母はハプスブルク家の子孫のオーストリア人

最初にご紹介した経歴では簡単にしかご紹介していませんでしたが、鰐淵晴子の母はハプスブルク家の末裔の1人であるオーストラリア人なんだそうです。ハプスブルク家と聞いてもピンと来ない人の方が多いかと思いますが、ハプスブルク家はドイツ系の大貴族でヨーロッパ随一の名門王家とも呼ばれています。

鰐淵晴子の母についてはハプスブルク家の末裔の1人でベルタと言う名前と言う事しか分かっていませんが、鰐淵晴子の若い頃を見てみると母もかなりの美人だったのではないかと推測されます。鰐淵晴子はハーフの色が濃く出た顔をしているので、恐らくは父ではなく母似ではないかと感じさせられます。

父はバイオリニストの鰐淵賢舟

鰐淵晴子の父について見て行きましょう。鰐淵晴子の父は鰐淵賢舟と言う人物で、バイオリンの演奏家や指導者として長年活躍して来た人物です。鰐淵晴子はそんな父親の影響があったからこそ、幼い頃からバイオリニストとして天才少女と注目を集めるまでに成長していったのでしょう。

鰐淵賢舟とは

鰐淵賢舟について簡単にご紹介していきましょう。鰐淵賢舟は渡米してプラハ音楽院でオタカル・シェフチクにバイオリンを習い、帰国後にはバイオリンの演奏会や指導者として活躍した人物です。NHK交響楽団のコンサートマスターを務めた事もあり、日本のバイオリニストとして現在も語り継がれている人物です。

3歳の頃からバイオリンの英才教育

鰐淵晴子は3歳の頃からバイオリンの英才教育を開始しています。指導は父が行っていたそうですが、鰐淵晴子の父は元々バイオリンの指導者としても活動を行っていたのでかなり厳しい指導が行われていたのではないかと感じさせられます。

8歳では全国演奏旅行を果たした天才少女

父の指導を受けバイオリンの技術を磨いて行った鰐淵晴子は、なんと若干8歳にしてバイオリンの全国演奏旅行を果たしてしまいます。この事は音楽業界に瞬く間に響き渡り、バイオリニストの間では鰐淵晴子の事が「天才少女バイオリニスト」として広く知られる事となりました。

日本人離れした容姿でも大人気

鰐淵晴子は「天才少女バイオリニスト」としてその才能が認められ世間から注目を集めていますが、実は鰐淵晴子に注目が集まったのにはもう1つ理由があったようです。と言うのも、鰐淵晴子はオーストラリア人の母の血を色濃く受け継いでいたので日本人離れした美しい容姿に恵まれていたのです。

この事が影響して子役としてデビューする事となった可能性も考えられますが、なぜ鰐淵晴子が子役としてデビューしたのかについては詳しい記述は存在していませんでした。いずれにしても、鰐淵晴子は若い頃から母譲りの日本人離れした美しさで世間から注目を集めていたのです。

鰐淵晴子は子役時代からも数々の賞を受賞

ここからは鰐淵晴子の女優としての活躍に注目していきましょう。鰐淵晴子は子役としてデビューし、その後女優としての活動を本格化させると瞬く間に人気女優の道を駆け上っています。鰐淵晴子はどのような女優としての道のりを歩んでいたのでしょうか?

1952年映画「母子鶴」で初主演

鰐淵晴子は1952年に映画「母子鶴」に初出演し子役としてデビューを飾ります。鰐淵晴子が演じたのは、主演の娘である映子の少女時代です。鰐淵晴子は主演ではなかったものの、日本人離れした美しさは見た人の印象に強く残り瞬く間に子役としても鰐淵晴子の名前が世間に広まっています。

1955年映画「ノンちゃん雲に乗る」で本格的に女優業を開始

「母子鶴」で子役として評価された鰐淵晴子は、1955年に公開された映画「ノンちゃん雲に乗る」で主演を演じ本格的に女優業を開始しています。この映画に出演した当時、鰐淵晴子の年齢はまだ10歳くらいだったようです。そんな幼さで映画の主演に抜擢されていた所を見ると余程人気だったのだろうと感じます。

1979年映画悪魔が来りて笛を吹く-金田一耕助シリーズ」

鰐淵晴子の若い頃の出演作品について調べていると、1979年に公開された映画「悪魔が来りて笛を吹く-金田一耕助シリーズ」にある印象的なシーンを演じて話題を集めていた事が分かりました。この映画は西田敏行演じる金田一耕助が事件を解決していくミステリー映画で、鰐淵晴子は秋子役として出演しています。

鰐淵晴子が演じた秋子は、結婚し娘を持つも若々しい美貌を保ち実の兄と関係を持って子を産んでしまった人物です。その為、作品の中では秋子が実の兄と交わる激しいベッドシーンも含まれています。しかし鰐淵晴子は難しい役にも関わらず高い演技力で演じ切り、その優れた演技力と美しさで注目されていたようです。

原節子の再来と言われた鰐淵晴子

どんな役でも優れた演技力で演じ切り、さらに正統派の美しさを持っていた鰐淵晴子は「原節子の再来」と評されるようになっていきます。原節子とは日本映画の黄金時代である1950年代前後に絶大な人気を誇った女優です。それだけ当時の鰐淵晴子の活躍には目を見張るものがあったのでしょう。

鰐淵晴子はドイツ語も堪能

鰐淵晴子はドイツ語や英語も堪能な人物です。この事が認められ、1956年に冬季オリンピックでアルペン3冠王になったオーストリアのトニー・ザイラーを主演に制作された映画「銀嶺の王者」で鰐淵晴子はヒロインに抜擢されています。鰐淵晴子以外には誰も演じる事が出来ない役柄だったのではと感じさせられます。

鰐淵晴子は若い頃にヌード写真集も

ここからは鰐淵晴子の若い頃に出したヌード写真集について詳しくご紹介していきます。鰐淵晴子は若い頃にヌード写真集まで出していたようですが、なんと撮影を担当していたのは鰐淵晴子の元夫だったそうです。鰐淵晴子の結婚歴についても一緒に見て行きましょう。

1970年に発売された「Ipy Girl Ipy / イッピー・ガール・イッピー」

鰐淵晴子は1970年に自身初となるヌード写真集「Ipy Girl Ipy / イッピー・ガール・イッピー」を出版しています。実はこのヌード写真集はアート作品として高い評価を得ているようで、現在もアート作品として語り継がれているそうです。鰐淵晴子の日本人離れした美貌がアート性を高めているのでしょう。

撮影は元夫のタッド若松

鰐淵晴子のヌード写真集「Ipy Girl Ipy / イッピー・ガール・イッピー」の撮影を担当したのは、タッド若松と言う鰐淵晴子の元夫だったそうです。この作品についての秘話などについては詳しい記述は残っていませんが、夫が撮影したからこそ秘められた鰐淵晴子の美しさが写真に収められたのかも知れません。

タッド若松とは

ここで鰐淵晴子の元夫のタッド若松について簡単にご紹介しておきましょう。タッド若松は写真家として活躍した人物で、1960年代に渡米して本格的にアメリカの超一流のファッション写真家の下でスキルを磨いた人物です。20世紀後半の日本の写真界をリードした人物と言っても過言ではありません。

タッド若松とは二度目の結婚

鰐淵晴子とタッド若松がいつ頃結婚していたか正確な記述は残っていませんが、鰐淵晴子はタッド若松とは2度目の結婚だった事が分かっています。鰐淵晴子はタッド若松と結婚後には娘1人に恵まれていますが、その後残念ながら離婚をしてしまっているようです。

一度目の結婚は一般人と

鰐淵晴子の1度目の結婚相手は誰だったのでしょうか?調べてみると、鰐淵晴子の1度目の結婚相手は一般人だったようです。しかし一般人とは言っても時計業界では有名な服部時計店の服部歊と言う人物だったようで、一流企業の男性と結婚していたようです。こちらも結婚時期などの記述は存在していませんでした。

鰐淵晴子の娘は鰐淵理沙

ここからは鰐淵晴子の現在や娘についてご紹介していきます。鰐淵晴子には娘が1人いますが、現在は娘も芸能活動を行っており母娘で共演も果たしているようです。鰐淵晴子の娘は一体どんな人物なのか、娘の活動や自宅の噂と共に現在の鰐淵晴子についても迫ってみましょう。

鰐淵晴子とタッド若松の間に生まれた娘・鰐淵理沙

鰐淵晴子は2回結婚していますが、1度目の結婚では子供に恵まれずタッド若松との間に娘1人を授かっています。鰐淵晴子の娘は鰐淵理沙と言うそうで、音楽家として活動しながら一時期はモデルとしても活躍をしていたそうです。

鰐淵理沙とは

鰐淵晴子の娘、鰐淵理沙についてさらに詳しく見て行きましょう。鰐淵理沙は1991年にテレビCMで芸能界にデビューしており、デビュー当時洗足学園大学で声楽を学んでいたそうです。同大学卒業後にはドイツに渡り、ケルン音楽大学で声楽を学んだ後にアーヘン市立歌劇場で歌手として活動し帰国しています。

帰国後は日本で音楽家としての活動を行っており、タレントとしてメディアに出演する事もあるそうです。鰐淵理沙も鰐淵晴子の娘なだけあって日本人離れした美貌の持ち主であり、その美しさから2000年に日仏共同製作されたミュージカル「ダ・ヴィンチ~光の翼」のモナリザ役に抜擢される活躍も見せています。

2014年に一般人男性と結婚し子供は一人

鰐淵理沙は2014年に一般人男性と結婚し、現在は子供1人にも恵まれているそうです。となると、鰐淵晴子は現在孫もいると言う事になります。鰐淵理沙の子供については詳しく分かっていませんが、鰐淵理沙も幼い頃から音楽の道を歩んでいるので子供も音楽の道を歩むのではないかと感じさせられます。

自宅には高価なバイオリンがずらり?

鰐淵理沙について調べていると、自宅はかなりの豪邸である事が判明しました。自宅には高価なバイオリンがたくさんあるとの情報もあり、鰐淵理沙の子供もバイオリンの指導を受けているのではないかと感じさせられてしまいます。

鰐淵理沙の自宅について触れたので鰐淵晴子の自宅についても見て行きましょう。実は鰐淵晴子の自宅については情報が存在していないようで、自宅の場所や自宅の内装など全く情報が存在していません。恐らく自宅は豪邸と考えられますが、自宅の情報が存在しないのはプライベートを厳重に守っているからなのでしょう。

母子揃って料理が得意でテレビ共演したことも

鰐淵晴子と鰐淵理沙は母子揃って料理が得意なんだそうです。この事から、2005年に鰐淵理沙が出演した「ジャスト」では鰐淵晴子とキッチンに立ち料理の腕を披露したそうです。とても仲の良い母子と感じさせられます。もしかしたら現在は鰐淵理沙の自宅でも一緒に料理を楽しんでいるかも知れません。

鰐淵晴子は現在も変わらず音楽一家で孫もいる

鰐淵晴子について詳しく見て来ましたが、現在は娘の鰐淵理沙も音楽家として活躍しており音楽一家として音楽に携わっている事が分かりました。鰐淵晴子は現在孫が1人いるそうなので、今後は孫も音楽家として活躍していくのかも知れません。今後も鰐淵一家の活躍に期待が高まります。

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