2020年07月14日公開
2020年07月16日更新
矢沢永吉の若い頃まとめ!当時の経歴や伝説などのエピソードも
広い層に支持されているロックミュージシャン・矢沢永吉さんの若い頃について調べた結果をご覧下さい。矢沢永吉さんの若い頃の経歴や伝説となった言動など、矢沢永吉さんの若い頃のエピソードを中心にご紹介します。矢沢永吉さんの足跡をご一緒に振り返りましょう。

矢沢永吉のプロフィール
・愛称:永ちゃん、ボス
・本名:趙永吉(チョ ヨンギル)
・生年月日:1949年9月14日
・年齢:70歳(2020年7月現在)
・出身地:広島県広島市
・血液型:B型
・身長:180cm
・体重:非公表
・活動内容:ボーカリスト、ミュージシャン
・所属グループ:なし
・事務所:レーベルはGARURU RECORDS(所属事務所なし)
・家族構成:妻(矢沢マリア)、前妻との子3人、矢沢洋子を含む現在の妻との子4人
矢沢永吉の経歴
矢沢永吉さんは1949年9月14日に広島県広島市で生まれました。矢沢永吉さんは在日韓国人で、1978年6月8日に日本に帰化しています。数多くのファンに支持されているロックミュージシャンである矢沢永吉さんの経歴の詳細は、記事本文をご覧下さい。
矢沢永吉の若い頃を徹底調査
2020年9月の誕生日に71歳となる矢沢永吉さんですが、現在も若い頃から色褪せないかっこよさで話題を集めています。この記事では、そんな矢沢永吉さんの若い頃に焦点を当ててみます。今のかっこよさの素地となった若い頃の矢沢永吉さんを徹底調査した結果をご覧下さい。
矢沢永吉の若い頃がかっこいい!
矢沢永吉さんの若い頃がかっこいいと話題を集めています。現在は渋みを増したかっこよさを発揮している矢沢永吉さんなのですが、若い頃の矢沢永吉さんはまた違った意味合いのかっこよさなのです。
若い頃はロックバンド「キャロル」で活躍
矢沢永吉さんは、若い頃はロックバンド「キャロル」で活躍していました。ロックバンドが希少だった時代に大人気を博したのです。矢沢永吉さんはボーカルとベース・ギターを担当していました。このキャロルは現在も伝説のロックバンドと呼ばれ、多くのロックミュージシャンに影響を与えています。
矢沢永吉の若い頃のかっこいい画像
矢沢永吉さんの若い頃のかっこいい画像や動画は、今でもネットで検索すれば見る事が出来ます。この記事内でもキャロル時代の矢沢永吉さんの動画を多数掲載しますが、ここでは矢沢永吉さんの若い頃のかっこいい画像をご覧下さい。
若い頃のかっこいい画像①
若い頃の矢沢永吉、男前。いや~、男前。ha~ha~。 pic.twitter.com/mOnwbNSj
— 栗木ロマン (@kuriki201) April 25, 2012
矢沢永吉さんの若い頃のかっこいい画像その1をご覧下さい。矢沢永吉さんがキャロルで活躍していた頃の画像です。髪をリーゼントにして革ジャンを羽織った矢沢永吉さんは、現在よりも細面でギラギラとした雰囲気を醸し出しています。現在でも通用するイケメンぶりではないでしょうか?
若い頃のかっこいい画像②
ぜんぜん世代が違うんだけど、若い頃の矢沢永吉さんカッコいいですな。
— 山岡ハクイ (@yamaoka_signal) August 5, 2019
ライヴが楽しくてたまらないって感じがビシバシ伝わってきます。
なんだか昔からの永ちゃんファンが羨ましい。そんな想いさえ抱かせる。パフォーマンスだけじゃなくてね。人間味が溢れてる。1976日比谷#矢沢永吉 pic.twitter.com/2yaCdFD5Ji
矢沢永吉さんの若い頃のかっこいい画像その2をご覧下さい。1976年、キャロルが解散し、ソロシンガーとして活動を開始した頃の画像です。その1の矢沢永吉さんよりも表情が穏やかで、落ち着いているように見えます。この年に矢沢永吉さんは初めて渡米し、ソロデビュー作のレコーディングを行なったのでした。
若い頃のかっこいい画像③
若い頃の矢沢永吉の表情が好きだ。こんなにギラギラしてる顔の人間は滅多にいない。欲望を完全に肯定してる。元気がない時のカンフル剤に使っている pic.twitter.com/oBcJuu5J
— Yasu suzuki (@aeteyokata) February 12, 2012
矢沢永吉さんの若い頃のかっこいい画像その3をご覧下さい。こちらはまた時間を遡り、キャロル時代の矢沢永吉さんの画像になります。カメラに背中を向け、横顔を見せている矢沢永吉さんですが、鼻筋が綺麗に通っているのが判ります。矢沢永吉さんは、雰囲気イケメンではない正統派のイケメンなのです。
矢沢永吉の若い頃の経歴
この章では、矢沢永吉さんの若い頃の経歴をご紹介します。押しも押されもせぬスーパースターである矢沢永吉さんですが、最初から天上人だった訳ではありません。矢沢永吉さんはどんな経緯を経て現在の地位を築いていったのでしょうか?
若い頃の経歴①レコード会社に売り込み開始
矢沢永吉さんの若い頃の経歴その1は、レコード会社に売り込みを開始した事です。1968年、高校卒業と共に広島から横浜市伊勢佐木町に移り住んだ矢沢永吉さんは、食堂で住み込みで働きながらバンド活動を開始しました。
そして広島を出て3ヶ月後、東芝EMI(現・EMIミュージック・ジャパン)で初めての売り込みをしたのですが、「売れない」と断られ、CBSソニーでも同様に断られてしまいましいた。矢沢永吉さんは自分の才能を理解しないレコード会社に憤ったそうです。
若い頃の経歴②ロックバンド「キャロル」結成
矢沢永吉さんの若い頃の経歴その2は、ロックバンド「キャロル」を結成した事です。1972年、矢沢永吉さんは張り紙チラシでバンド募集をかけ、募集に応じたジョニー大倉さん・内海利勝さん・ユウ岡崎さんと共にロックバンド「キャロル」を結成しました。
歌謡曲とフォークソングが主体の音楽界に出現したキャロルは、若者世代を中心に爆発的に人気が上がり、日本のロック史にその名を刻んだのでした。
若い頃の経歴③ソロデビュー
矢沢永吉さんの若い頃の経歴その3は、ソロデビューした事です。大人気を博したキャロルでしたが、1975年に解散しています。同じ年に矢沢永吉さんはCBSソニーに移籍し、キャロルで築いた人間関係やスタッフの一切と別れ、初めて渡米してレコーディングを行ないました。
そして、ロサンゼルスでレコーディングしたシングル『アイ・ラヴ・ユー、OK』とアルバム『I LOVE YOU, OK』を発売し、ソロデビューを果たしたのです。キャロルでの印税を全て注ぎ込んだのですが、当初の評判は上々とは言えませんでした。
しかし、ソロデビューから1年後には「元キャロルの矢沢永吉」から「ソロシンガーの矢沢永吉」として見られるようになっていき、ソロシンガー・矢沢永吉としての確固たる地位を築いていったのです。
若い頃の経歴④アメリカに拠点を移し活動
矢沢永吉さんの若い頃の経歴その4は、アメリカに拠点を移して活動した事です。1978年と1980年に長者番付歌手部門で首位を獲得した矢沢永吉さんは、1981年に単身で渡米し、アサイラム・レコードと契約しました。
そして、ソロデビューのシングルとアルバムをレコーディングしたロサンゼルスを、新たな活動拠点に定めたのです。
1981年にアルバム「YAZAWA」を全世界で発売
1981年にアメリカに進出した矢沢永吉さんは、同年9月25日に第一弾海外版アルバムである『YAZAWA』を全世界で発売しました。全米での売上枚数は約2,000枚でした。その翌年、矢沢永吉さんは第二弾海外版アルバムである『YAZAWA It's Just Rock'n Roll』を全世界で発売しています。
同年にはシングル『ROCKIN' MY HEART』がビルボードの推薦曲として掲載され、アメリカでの知名度・人気も向上していきました。そしてドゥービー・ブラザーズのメンバーと共にE.YAZAWAとして「帰国」ではなく「来日」という形で日本に入国し、武道館ライブを開催しました。この年、3度目の長者番付歌手部門・首位を獲得しています。
若い頃の経歴⑤映画『お受験』主演
矢沢永吉さんの若い頃の経歴その5は、映画『お受験』で主演した事です。矢沢永吉さんは、1999年7月3日に公開された松竹映画『お受験』で、映画初主演を飾りました。全盛期を終えた長距離ランナーが子供の受験に際して起こした行動を描いた物語です。「I have no reason.」でエンディング曲も担当しました。
矢沢永吉の若い頃の伝説エピソード
矢沢永吉さんの若い頃の経歴に続いて、矢沢永吉さんの若い頃の伝説エピソードをご紹介します。矢沢永吉さんの有名な名言を始めとしたエピソードは、どれも矢沢永吉さんの人間としてのスケールの大きさを思い知らされるものばかりです。
若い頃の伝説エピソード①名言「お前らの一生掛かって稼ぐ金、矢沢の二秒」
矢沢永吉さんの若い頃の伝説エピソードその1は、名言「お前らの一生掛かって稼ぐ金、矢沢の二秒」にまつわる話です。矢沢永吉さんは若い頃所属していたCBSソニーの上層部と今後の活動について口論になりました。
その時上層部の人間に「いつまでもこの人気が続くと思うな」と言われ、矢沢永吉さんは以下のように答えたのです。「お前らがなんぼ良い学校出てなんぼいい会社に就職してがむしゃらに働いたところで、お前らの一生掛かって稼ぐ金、矢沢の二秒」と。
その後、矢沢永吉さんは3回長者番付歌手部門の首位を獲得しています。口論の時に飛び出した言葉を、見事に体現してみせたのです。
若い頃の伝説エピソード②ホテル予約に圧力?
俺はいいけどYAZAWAが何て言うかな?
— アーティストの作品と言葉 (@aart_bot) July 8, 2020
矢沢永吉 pic.twitter.com/FBuJFIX62m
矢沢永吉さんの若い頃の伝説エピソード2は、ホテル予約に圧力をかけた話です。それは、ライブツアーでの出来事でした。係の人間の手違いで、ホテルのスウィートルームを取る筈が、ツインルームを取ってしまったのです。
手違いを詫びる係の人間に対し、矢沢永吉さんは「気にしないでよ。僕は別にいいから」と答えて係の人間が安堵した次の瞬間、「ただYAZAWAは何て言うかな?」と言い放ちました。真っ青になった係の人間は、即座に別のホテルの最上階スウィートを取って急場をしのいだのだそうです。
若い頃の伝説エピソード③慰謝料はポルシェ3台分
矢沢永吉さんの若い頃の伝説エピソード3は、慰謝料はポルシェ3台分だった話です。22歳の時に結婚し3人の子供を授かった矢沢永吉さんでしたが、1989年に協議離婚をしました。離婚事由となったのは、矢沢永吉さんの不倫でした。
離婚会見で離婚の原因を聞かれた矢沢永吉さんは「愛がなくなったから」と答えています。そして慰謝料の額を聞かれた時に「ポルシェ3台分」(4,500万円から6,000万円)と明かして記者一同の度肝を抜いたのでした。
若い頃の伝説エピソード④暴走族が矢沢永吉を先導
矢沢永吉さんの若い頃の伝説エピソード4は、暴走族が矢沢永吉を先導した話です。ソロ活動を始めて間もない頃、自前のポルシェで九州に到着した矢沢永吉さんは、ツアーに同行するトラックとはぐれてしまいました。
矢沢永吉さんは、この時何と地元の暴走族に「俺矢沢だけど迷子になっちゃった。国道まで案内してくれない?」と呼び掛けたのです。暴走族は仰天しながらも矢沢永吉さんの求めに応じ、それに呼応する別の暴走族も加わって、大量の暴走族が矢沢永吉さんのポルシェを先導するという騒動になったのでした。
矢沢永吉の若い頃の生い立ちエピソード
この章でご紹介する矢沢永吉さんの若い頃のエピソードは、矢沢永吉さんの生い立ちです。一体どんな生い立ちが伝説のスーパースターを造り上げていったのでしょうか?矢沢永吉さんの少年時代から振り返ってみましょう。
生い立ちエピソード①極貧生活
矢沢永吉さんの生い立ちエピソードその1は、極貧生活だった話です。矢沢永吉さんの母親は、3歳の矢沢永吉さんと父親を置いて失踪しました。広島で被爆していた父親は矢沢永吉さんが小学2年生の時に亡くなっています。
両親を失った矢沢永吉さんは親戚をたらい回しにされた後、父方の祖母に引き取られました。しかし生活は非常に貧しく、裕福な家の子供にいじめられたそうです。極貧生活時代に味わった悔しさが、「BIGになる」という思いの原動力になった、と矢沢永吉さんは語っています。
生い立ちエピソード②ギターを習得
矢沢永吉さんの生い立ちエピソードその2は、ギターを習得した話です。ロックが大好きだった矢沢永吉さんは、高校2年生の時、アルバイトで稼いだお金でエレキギターを買い、ギターのレッスンを受けるようになりました。
そして高校3年生の時に、同居していた祖母にドラムセットを買ってもらい、ますます音楽活動にのめり込んでいったのです。
生い立ちエピソード③盲腸炎と破り捨てた卒業証書
矢沢永吉さんの生い立ちエピソードその3は、盲腸炎と破り捨てた卒業証書にまつわる話です。高校3年生で卒業を控えていた時、矢沢永吉さんは盲腸炎になり、手術を受けました。そして退院する日が卒業式だったのでした。
医者に安静にしているように言われたのですが、「卒業証書をもらってケリをつけたい」という思いが強く、術後の痛みをこらえてバイクで学校に駆けつけたのです。その時既に卒業式は終わっており、教室でミーティングを行なっていました。
遅れて登場した矢沢永吉さんに対し、担任教師は無造作に卒業証書を手渡ししました。矢沢永吉さんは受け取った卒業証書を破り捨て、当初の目的通りに高校生活にケリをつけたのでした。
生い立ちエピソード④親戚とのドラム騒動
矢沢永吉さんの生い立ちエピソードその4は、親戚とのドラム騒動の話です。高校卒業後に横浜市に移住した矢沢永吉さんですが、高校3年生の時に祖母にもらったドラムセットを引き取るために故郷に帰ってきました。
しかし、ドラムセットは何故か矢沢永吉さんのおじの家に移動していたのです。「返してくれ」と言う矢沢永吉さんに、おじは応じなかった上に暴言を吐き、更に「(ドラムが欲しければ)売ってやる」と言いました。
頭にきた矢沢永吉さんは「あと何年かかるかわかんねえけど、お前ら全員土下座させてやる!見返してやる!」と叫び、おじの家を飛び出したのです。おじ一家を皆殺しにしたいほどの怒りの衝動が湧いた事を、後年の矢沢永吉さんが述懐しています。
矢沢永吉は若い頃から伝説的な存在
矢沢永吉さんは若い頃から伝説的な存在でした。矢沢永吉さんが若い頃は「音楽活動をしている人間は金銭にまつわる話をしないもの」という社会通念があったのですが、若い頃の矢沢永吉さんはきっぱりと「儲かると聞いたから歌手になった」と語っています。
それまでの常識をかっこよく覆す存在だったのです。そんな矢沢永吉さんの躍進は現在も止まっていません。矢沢永吉さんはこの先も「生きる伝説」で在り続ける事でしょう。