【吉展ちゃん誘拐殺人事件】概要とその後!犯人や関係者は?
昭和に起きた吉展ちゃん誘拐殺人事件について紹介します。戦後最大の誘拐殺人事件として有名ですが、この事件の概要やその後はどのようなものになっているのでしょうか?吉展ちゃん誘拐殺人事件の犯人や被害者の母親、そして事件に関わったあの刑事について紹介します。

目次
【吉展ちゃん誘拐殺人事件】とは
吉展ちゃん誘拐殺人事件は昭和を代表する事件の一つであり、日本で初めて報道協定が結ばれた事件として有名です。この事件がきっかけで、被害者やその家族に対するプライバシー保護が重要視されてることになりました。
この記事の中では、吉展ちゃん誘拐殺人事件の概要を紹介するとともに、刑事や被害者の母親、そして犯人について紹介します。
また、この事件は狭山事件などと合わせて、ドラマや映画化されている事件です。なぜ、ドラマ化されるほどの事件となってしまったのかという点も含めて、その概要を確認していくことが重要といえます。
1963年に東京都台東区で起きた男児誘拐殺人事件
#奥田英朗 #罪の轍「オリンピックの身代金」から11年の時を経て、オリンピックの前年昭和38年に発生した「幼児誘拐殺人事件」。電話を手段に使った新しい犯罪の幕開けを二本にもたらし、震撼させた事件。吉展ちゃん事件を激しい慟哭で描いた刑事魂が熱く燃えるサスペンス。グイグイ読ませる力業。続く pic.twitter.com/fd9RyvGsks
— 小川三四郎 (@SanShirou_2017G) September 18, 2019
吉展ちゃん誘拐殺人事件は1963年3月31日に東京都台東区入谷町(現在の松が谷)で起きました。松が谷といえば、かっぱ橋道具街の入り口としても有名ですが、この場所で吉展ちゃん誘拐殺人事件が起きています。
吉展ちゃん誘拐殺人事件の概要
吉展ちゃん誘拐殺人事件の概要を紹介していきます。この事件は犯人はもちろんですが、被害者の母親や刑事などに様々なエピソードが含まれている事件です。また、吉展ちゃん誘拐殺人事件がきっかけで、その後に起きる狭山事件の捜査方法に影響が起きているそうです。
事件概要①村越吉展ちゃんが自宅付近の公園で行方不明に
吉展ちゃん誘拐殺人事件の被害者は村越吉展ちゃんで、当時まだ4歳の男の子でした。吉展ちゃんは1963年3月31日の16時30分から17時40分ほどの間に行方不明となっています。
吉展ちゃんは、東京都台東区入谷町に住む建築業者の長男で、自宅近くの公園に遊びに出かけている間に行方不明になりました。最初、両親は吉展ちゃんが迷子になったと感じて警察に通報したそうです。そのため、新聞なども誘拐ではなく行方不明の事件が起きたという風に報じていました。
事件概要②吉展ちゃんの実家に犯人が身代金要求
しかし、警察が付近の聞き込みを続けていく中で、吉展ちゃんは迷子になったのではないと感じたようです。そして、聞き込みの中で30代の不審な男が目撃されていました。その男性が公園で吉展と会話をしていたという情報だったわけです。
このことで、警察は迷子ではなく誘拐の可能性があるとして捜査本部を設置しています。ここまでの警察の対応は不適切な部分はないですが、その後の捜査方法には問題があったと考えられるものが出てきます。
事件概要③吉展ちゃんの母親が身代金受け渡し
吉展ちゃん誘拐殺人事件が起きてから2日後の、4月2日に犯人と思われる人物から母親のもとに電話がかかってきます。犯人は母親に身代金50万円を要求しました。このとき警察はとある事件との因縁を感じることになります。
それは吉展ちゃん誘拐殺人事件の3年前に起きた「雅樹ちゃん誘拐殺人事件」というものです。この事件のときは、誘拐事件が起きたことを報道各社が報じたことで犯人が追い込まれてしまうということが起きていました。
吉展ちゃん誘拐殺人事件
— 村瀬迪与 (@michiyo_murase) August 11, 2019
当時の映像と共に作られたドキュメンタリーを見た事がある。
悲しい痛ましい事件。
報道協定が初めて結ばれた事件。
報道協定が解除された時、報道記者達が「異議なし!異議なし!」と叫びながら一斉に散らばっていった
とても印象的だった。 #刑事一代
その後、犯人が過熱する報道に追い詰められたことで、誘拐した子供を途中で殺害していたのです。そのため、警察は吉展ちゃん誘拐殺人事件では報道機関に自粛を要請する「報道協定」が結ばれました。このことがその後の報道協定の基準になったと考えられています。
母親は警察と協力しながら、身代金を用意しています。警察は4月4日に犯人からの電話を録音することに成功しています。その後、このときの録音を使って犯人の声を公開するということにもつながっています。
そして、母親は犯人から指定のあった4月6日に、上野駅前の住友銀行脇の電話ボックスに身代金を持っていくことになります。しかし、母親が指定された場所に行っても犯人は現れることはありませんでした。
母親の身代金受け渡しは失敗?
母親は犯人が現れなかったため、電話ボックスの中に書き置きを残して自宅に戻ることにしました。警察はその後も電話ボックスを見張っていたようですが、そこには犯人が現れなかったそうです。
犯罪やいじめの被害者に落ち度があるってクソリプ飛ばす匿名アカを見るたびこれを思い出す。1963年の吉展ちゃん誘拐(殺人)事件で、拐われた子供の帰りを待つ被害者宅に届けられた匿名の手紙。いつの時代もこの手のやからは一定数いるんだろうねぇ。 pic.twitter.com/ESoZdPrtBz
— 東海林毅@9/29偏愛inアマランスラウンジ (@Tsuyoshi_Shoji) May 15, 2019
その日の夜、犯人から電話ボックスの近くに警官が居たため近寄れなかったことを伝える電話がかかっています。犯人は翌日、次の受け取り場所を指定したそうです。このときは被害者自宅から300mほどしか離れていない自動車販売店の軽三輪自動車でした。
母親がその場所に向かって身代金を置いて現場を離れています。犯人はその一瞬の間に身代金を奪い、代わりに約束だった吉展ちゃんの靴を置いて現場を逃走しました。警察はこの一瞬を見逃しており、大きなミスを犯しています。
また、近くで張り込みをしていた捜査員もいました。しかし、現場近くから出てくる不審な男よりも、母親が現金を置いて離れることに気が向いており、怪しい男に職務質問をすることが出来なかったそうです。これらのミスは、その後の悲しい出来事につながっています。
事件概要④犯人の脅迫電話の肉声公開
犯人は身代金を受け取ることに成功したため、その後は母親に連絡をしてくることはありませんでした。そして、被害者は解放されることはありませんでした。このように、吉展ちゃん誘拐殺人事件の初動捜査は失敗したといえます。
4月13日に、警察の警視総監がマスコミを通じて、犯人に子供を返すように呼びかけも行っています。また、4月19日には公開捜査に切り替えて、犯人が電話をしてきたときの肉声も公開しました。
犯人に小原保の名が挙がるもアリバイ有りでシロに
このことが影響して、犯人に関する情報は1万件近く集まったそうです。警察は4月25日に改めてラジオやテレビで犯人の声を全国に向けて放送しました。その結果、7月4日に小原保という人物が犯人として浮かび上がってきたのです。
当時32歳だった小原保が捜査の線に浮かび上がったのは、あの公開した音声が関係しています。言語学者が犯人は「南東北」か「北関東」出身の可能性が高いという鑑定を行っていました。このことで、犯人の出身地が絞り込まれることにつながっています。
また、文化放送の記者が行きつけの喫茶店で似た声の人物を知っているという情報を持ち込みました。このとき文化放送の記者は小原保にインタビューを行っており、その声を録音したものを警察に提出しています。
他にも小原保は足が悪く、歩き方に特徴がある人物でした。それだけに、子供を連れた足の悪い人物という目撃情報も重要な手がかりとなっていたわけです。
しかし、警察が小原保のアリバイを調べると、3月27日から4月2日まで福島の実家に居たということが発覚したのです。このアリバイを覆す情報を見つけることが出来なかったため、警察は小原保は「シロ」だと判断しています。
事件概要⑤昭和の名刑事の平塚八兵衛を投入し小原保逮捕へ
吉展ちゃん誘拐殺人事件の捜査が行き詰まりを見せる中で、警察は昭和の名刑事である平塚八兵衛を投入することになります。事件からすでに2年が経っていたのですが、このことが吉展ちゃん誘拐殺人事件を解決することに繋がりました。
平塚八兵衛は小平事件、帝銀事件、下山事件などの捜査に関わっており、多くの事件を解決に導いています。しかし、現在はの平塚八兵衛の捜査方法に関して賛否両論があります。特に、時には暴力や被疑者を追い込む取り調べで自白させている点は問題があるといえるでしょう。
平塚八兵衛の捜査の内容とは
まず、平塚八兵衛を中心とした新しい捜査陣は身代金を要求したときのテープを聞いて、犯人は小原保に間違いないという判断をしています。このとき、小原保は窃盗罪で服役していたこともあり、平塚八兵衛は徹底的に取り調べを行うことにしました。
【今日の墓碑銘】
— 岡村 義視 (@kamo1868) October 29, 2018
1979年10月30日。平塚八兵衛が死去。昭和の刑事。帝銀事件や三億円事件など戦後の大事件の捜査を数多く担当。特に吉展ちゃん誘拐殺人事件では粘り強い取り調べにより犯人の自供を引き出した。その辣腕ぶりから「落としの八兵衛」など様々な異名をとった
(66歳・膵臓癌) #生寄死帰 pic.twitter.com/BmU2iZprD8
平塚八兵衛は吉展ちゃん誘拐殺人事件を調べるために、小原保の実家がある福島に出向いています。その中で、小原保のアリバイのきっかけになった目撃情報が間違っており、4月1日ではなく3月28日に目撃されていたということが分かったのです。
また、小原保は3月29日に知人宅の土蔵の鍵を壊して、そこでシミモチを食べたことをアリバイとしていましたが、この年は米の不作からシミモチは作られていなかったことも判明しました。これらの情報を持って改めて平塚八兵衛は小原保の取り調べを行っています。
その後、平塚八兵衛の取り調べの中で他にもボロが出たこと、そして小原保の母親が心配していたことを伝えて自白させることに成功しています。小原保が持っていた現金は吉展ちゃん誘拐殺人事件で手に入れたお金だったことも認めたのです。
吉展ちゃん誘拐殺人事件と狭山事件の関係性
吉展ちゃん誘拐殺人事件はこのような形で解決したわけですが、とある因縁を含んだ事件でもありました。それは、吉展ちゃん誘拐殺人事件が起きた2ヶ月後に起きた狭山事件というものです。吉展ちゃん誘拐殺人事件と狭山事件の関係性について紹介します。
狭山事件とは
狭山事件は1963年5月1日に埼玉県狭山市で起きた、高校一年生の少女が被害者の強盗強姦殺人事件です。犯人は当時24歳の石川一雄という人物であり、冤罪の疑いや被差別部落出身に対する差別が考えられる事件です。
下校途中の少女が午後3時ごろに目撃されたのを最後に行方不明となっており、午後7時ごろに玄関に白い封筒が挟まれていたところから事件であることが発覚しました。
封筒には少女の生徒手帳と犯人からの脅迫状が同封されており、書かれている内容から犯人は言葉や文章について学んだ事が無い人物である可能性がある事が発覚しています。この事は当時「文盲」という言葉で表現されており、差別にあたる言葉であると問題視されていました。
吉展ちゃん誘拐殺人事件と同様に身代金の受け渡しが行われたものの、一度目は現れないという共通点もありました。結果的には、直接身代金が受け渡されたものの、警察に気づいた犯人が逃亡しています。
しかし、足跡などを捜索した結果、犯人は見つかりました。誘拐されていた被害者は見つかっていますが、残念ながら少女は遺体で発見されています。
吉展ちゃん誘拐殺人事件2ヶ月後に狭山事件発生
警察にとってこの事件はある種の因縁を感じさせるものでした。その理由は吉展ちゃん誘拐殺人事件が起きてから2ヶ月後に起きたというのが大きな理由です。吉展ちゃん誘拐殺人事件のときに警察は犯人を取り逃しており、狭山事件でも同様に相手を取り逃していたわけです。
この事が関係して警察は吉展ちゃん誘拐殺人事件に続いて、厳しい批判を受けていました。狭山事件の被害者が遺体で発見された日に警察庁長官が辞表を提出して引責辞任しています。
また、警察は複数の容疑者をリストアップしており、結果的に石川一雄を逮捕していますが、アリバイに関して怪しいところが残ったままになっています。
この事件においてカバンと万年筆、そして腕時計は石川一雄の自供により発見されており、三大物証と呼ばれています。しかし、実際に見つかった証拠は自供のものとは別だったという疑いが残っています。
当初、石川一雄は容疑を認めていたものの、東京高裁で一転して無罪を主張したものの無期懲役となっています。そして、1994年に31年7ヶ月ぶりに仮出獄となった後は、無罪主張を続ける活動を行っています。
吉展ちゃん誘拐殺人事件のその後は?
吉展ちゃん誘拐殺人事件のその後について紹介します。吉展ちゃん誘拐殺人事件は様々な物事が絡み合っており、その後の警察の捜査にも影響を与えています。吉展ちゃん誘拐殺人事件の被害者や犯人のその後について確認してみましょう。
その後は吉展ちゃんの遺体発見
犯人の自供により荒川区南千住にある円通寺墓地から吉展ちゃんの遺体が発見されました。すでに遺体は白骨化しており、警察の捜査次第では助けられた命だったことが悔やまれる事件です。
吉展ちゃんは事件が起きた直後に殺害されていることも判明しています。これは犯人が足が不自由だったことが関係しており、吉展ちゃんにそのことを見られていることから自分が犯人だとバレると考えたそうです。最初の身代金を要求した事件のとき、すでに吉展ちゃんは殺害されていたというのは辛い事実といえます。
遺体発見場所は円通寺の墓地
吉展ちゃん誘拐殺人事件の遺体が発見された円通寺というお寺は、791年に坂上田村麻呂が開いた場所だと言い伝えられています。事件が発生してから2年が経過しており、遺体の口元からネズミモチの芽が発芽していたそうです。
1963年に起きた吉展ちゃん誘拐殺人事件の被害者・村越吉展(当時4歳)が祀られていた。自宅のある入谷で誘拐され南千住で殺害されたのだそうな…合掌。 pic.twitter.com/uAmOtpKuGb
— イテリメン (@runrig86) August 19, 2019
このネズミモチは2年ほどで発芽するという特徴があったため、殺害されて土の中に埋められていた期間と辻褄も合ったわけです。その後、被害者の供養のためにお寺には「よしのぶ地蔵」が建立されています。
この場所は現在でも同様の状態で保管されており、一般の人も訪れることが出来ます。事件が起きたころの時期になるとお参りに訪れる人も多いそうです。幼い子供の命が奪われたということが関係しているのでしょう。
吉展ちゃん誘拐殺人事件その後は身代金目的略取刑法が追加
小原保が吉展ちゃん誘拐殺人事件を起こした理由は、借金の返済のために金が必要だったのが大きな理由です。そのため、吉展ちゃん誘拐殺人事件後に「身代金目的略取刑法」が新しく条項として追加されています。
これは吉展ちゃん誘拐殺人事件のように、営利誘拐ではなく、身代金目的で誘拐することはより重い刑罰を科すべきという理由から追加されたものになっています。また、この法定刑は無期又は3年以上の懲役となっており、明確に営利目的の誘拐とは分けて判断されるものになっています。
吉展ちゃん誘拐殺人事件犯人の小原保は死刑判決
吉展ちゃん誘拐殺人事件の犯人はその後、どうなったのでしょうか?この事件は1966年3月17日に東京地方裁判所が小原保に死刑を言い渡したものの、弁護側は計画性は無かったとして控訴しています。
その後も控訴棄却などのやり取りがあった中で、1967年10月13日に最高裁判所は上告を棄却して吉展ちゃん誘拐殺人事件の小原保は死刑が確定しています。小原保は服役中に、自分を逮捕した平塚八兵衛に何度か手紙を送って心境を伝えていたそうです。
現在は犯人死刑執行済み
小原保は吉展ちゃん誘拐殺人事件の犯人として、1971年12月23日に宮城刑務所にて死刑が執行されています。このとき小原保は38歳でした。平塚八兵衛は1975年に刑事を退職したあとに、自分が関係した事件の墓参りを行っています。
その中で、吉展ちゃん誘拐殺人事件の小原保の墓参りも行っています。しかし、小原保は先祖代々の墓には入れてもらえずに、隣に小さな土盛りがされた場所に葬られていたそうです。平塚八兵衛はこの光景に複雑な感情を抱いています。
ドラマ吉展ちゃん事件をみたので、久びさに引っ張り出した。女性セブン(昭和47年4月5日号)からの引用部分で、小原保の短歌を黙読した吉展ちゃん母の言葉。被害者としてなかなか言えるものではないと思う pic.twitter.com/UrtLuu57U0
— 神 (@mokumeiara) April 23, 2018
このような扱いを受けた理由は詳しく明かされていませんが、親族からすれば一緒の墓に入れるわけにはいかなかったのでしょう。実際、小原保に死刑判決が確定した後は、家族や親類の面会は無かったそうです。
小原保は、死刑が執行されるまでは教誨師に勧められた短歌を嗜んでいました。そのため小原保は死刑が執行されるまでの間にいくつもの短歌を残しています。被害者の母親も、週刊誌の取材の際に見せられたという話も残っているようです。
吉展ちゃん誘拐殺人事件の犯人について
吉展ちゃん誘拐殺人事件は、このように犯人、警察、被害者に大きな影響を与えた事件でした。その中で、吉展ちゃん誘拐殺人事件を起こした小原保という人間はどういった人物だったのかが注目されています。
歴史上に残る犯罪を犯した犯人は、その生い立ちに原因があるといった見方もあります。吉展ちゃん誘拐殺人事件の犯人はどんな人物だったのか、生い立ちや事件までの経歴について見て行きましょう。
犯人(小原保)の生い立ち
吉展ちゃん誘拐殺人事件の犯人である小原保は、1933年に福島県石川郡石川町に生まれています。小原保の家はとても貧しい農家だったそうです。この貧しい家庭がその後の事件の因縁につながったと言えるでしょう。
11人兄弟を持つ大家族に誕生
小原保の家は11人兄弟でした。小原保はその中で10番目に生まれた五男だったそうです。昔は、こういった大家族が多く、働き手が必要だったことが関係しているのでしょう。農作業が出来ない時期には出稼ぎに行くということも多かったそうです。
小学生時代から骨膜炎により片足不自由に
吉展ちゃん誘拐殺人事件の犯人が可哀想だったのは、小学校時代にあかぎれが原因で骨膜炎になったことです。この骨膜炎が原因で小原保は片足が不自由になってしまいました。そして、足が不自由なことで農作業などの肉体労働が出来ない上に、周りから歩き方を真似されて馬鹿にされていたそうです。
中学卒業後に各地の時計店にて勤務
小原保は中学校卒業後に、仙台の職業訓練学校で時計修理を学んでいます。そして、各地の時計店に勤務しました。この仕事を選んだ理由は足が不自由でも、座ったままできる仕事だったからのようです。
時計店クビの後に借金苦へ
吉展ちゃん誘拐殺人事件を起こした犯人は、自分の生い立ちや身体のことにコンプレックスを抱えていたことが考えられます。その一つとして、1960年に上京して上野の時計店で働き始めたものの、すぐにトラブルを起こしているからです。
小原保は時計職人の給料が少ないことに不満があり、時計ブローカーの内職を始めていました。しかし、時計店の主人にそのことがバレてお店をクビになっています。
その後は定職には就かず、時計ブローカーなどの仕事で稼いだり、ヒモ生活をしていたそうです。そして、この生活がうまくいかなくなったことが、吉展ちゃん誘拐殺人事件を起こす原因になっています。
犯人(小原保)は前橋刑務所で服役の過去も
小原保は、吉展ちゃん誘拐殺人事件で逮捕される前、1963年8月に賽銭泥棒で服役したという過去がありました。このときは懲役1年6ヶ月で執行猶予4年だったそうです。しかし、執行猶予中の同年12月に工事現場からカメラを盗んだ罪で懲役2年の実刑が確定しています。
このことを考えると吉展ちゃん誘拐殺人事件を起こしている中で、賽銭泥棒の罪やカメラを窃盗した罪で捕まっていたというわけです。警察は前科持ちになり、前橋刑務所に服役していた小原保を改めて吉展ちゃん誘拐殺人事件として捜査しています。
吉展ちゃん誘拐殺人事件当時の捜査関係者
この吉展ちゃん誘拐殺人事件は、複雑な事案だったこともあり、捜査関係者の記憶にも色濃く残っているそうです。まるでドラマのような事件だったことや狭山事件との関係もあり、捜査関係者の言葉が多く残っています。
担当弁護人の白井正明が当時を振り返る
その中で、小原保の担当弁護人だった白井正明が2018年にインタビューに答えています。白井正明はインタビュー当時で80歳になっていました。白井正明が吉展ちゃん誘拐殺人事件に関わったのは、前任者が突然解任されて、まだ3年目だった白井正明が選ばれたという経緯があったのです。
まだ3年目だった白井正明が選ばれた理由は、事務所の経営者弁護士が大きな事件を担当することで、経験を積ませたいという考えがあったためのようです。白井正明は事実認定を行う事件に興味があり、吉展ちゃん誘拐殺人事件が死刑事件だったことが担当するきっかけとなっています。
犯人(小原保)逮捕には
しかし、日本の裁判は三審制であり、最高裁の上告審で二審までの結果が覆ることはほぼないという状況でした。吉展ちゃん誘拐殺人事件の犯人は一審で死刑、二審で控訴棄却という状態だったのです。
それでも白井正明はタイミング的なものや、他の事件との因縁も感じたため、なんとか救おうと動き始めていたのでしょう。また、白井正明は吉展ちゃん誘拐殺人事件の犯人と面会する中で、おとなしい人物だと感じたそうです。
吉展ちゃん誘拐殺人事件(1963年)の犯人小原保は、取調べの際心理的に追い詰められると、机の上に飛び乗って天井の通風筒に両手でぶら下がり、「キャッ、キャッ」などと猿の猿真似をしていたとのこと。
— ヨヨギ (@Vril_kyoukai) October 31, 2013
その中で、吉展ちゃん誘拐殺人事件の犯人は貧しい家庭で生まれたこと、足が不自由なこと、いじめを受けていたことを知りました。また、唯一心が安らぐのは山に登って景色を眺めているときだったことを明かしてくれたそうです。
実は白井正明も母親の実家がある福島県に疎開した経験があり、山に登って景色を眺めていたことがあったそうです。その話をきっかけに小原保は心を開いてくれました。
小原保は吉展ちゃんを誘拐した後に、お寺で休んでいたそうです。そこに、カップルが来たため、子供の口を押さえました。そして、その行動が原因で子供が死んでしまったと説明したそうです。つまり、死なせたことは認めるものの、殺すつもりはなかったと訴えました。
犯人の母親の言葉が小原保の自供に繋がる
結果的に死刑判決が覆ることはありませんでした。もし、このことが認められていたら、殺人ではなく傷害致死として死刑になることはなかったでしょう。また、小原保が刑事の平塚八兵衛に自供したのは母親の言葉が関係しています。
平塚八兵衛が犯人の地元である福島に訪れて調査する中で、母親が息子に正直に話すように頼んでいたことも重要なポイントです。母親は息子は人を傷つけるような人間ではないと感じていました。
しかし、もし悪いことをしている場合は真人間になって反省するように平塚八兵衛に頼んだようです。平塚八兵衛、母親、白井正明弁護士などの存在が吉展ちゃん誘拐殺人事件の解決につながったと言えるでしょう。
小原保が自供は二転三転している部分もあり、本当に吉展ちゃんを故意に殺害したかという疑問点は残ったままです。こういった経緯があり、狭山事件を含めて警察にとってこの事件は因縁になったわけです。
吉展ちゃん誘拐殺人事件関連のドラマや映画
「実録・昭和の事件シリーズ」のDVDBoxが届く。本屋店頭ワゴンDVDみたいなジャケだが、大地康雄、ショーケン、三國連太郎、泉谷しげるが並ぶ濃厚さ。しかし、深川通り魔殺人事件、吉展ちゃん誘拐殺人とかが遂に茶の間で普通にいつでも観れる時が来るとは。 pic.twitter.com/mog0UfIsZO
— やんやレコード (@yanya_record) September 29, 2018
吉展ちゃん誘拐殺人事件は全国に報道されたことや、事件の内容もあって関心が強かったものです。そのため、吉展ちゃん誘拐殺人事件を扱ったドラマや映画がたくさん製作されています。その中で有名な作品をいくつか紹介します。
吉展ちゃん誘拐殺人事件がドラマや映画化に
吉展ちゃん誘拐殺人事件は、1963年、高度経済成長まっただ中、東京オリンピックの前年、犯人は福島出身で貧しかった、映画『天国と地獄』の予告を見て犯行を思いつく、事件解明まで約2年を要した、捜査においては色々初めての手法が取られた、これもまた、貧しさが事件の根幹にあるなぁ。
— 木村奈緒 (@nao0108) August 27, 2012
昭和の時代は吉展ちゃん誘拐殺人事件を始めとした事件を、ドラマや映画化することが多くありました。津山事件や阿部定事件、大久保清連続殺人事件などです。吉展ちゃん誘拐殺人事件もそういった中で製作されたドラマや映画があります。
「戦後最大の誘拐・吉展ちゃん事件」としてドラマ化
有名な作品としては1979年にテレビ朝日が製作したドラマ「戦後最大の誘拐・吉展ちゃん事件」があります。このドラマで吉展ちゃん誘拐殺人事件の犯人の小原保を泉谷しげるが演じています。
ドキュメンタリー映画「噫(ああ)!吉展ちゃん」も話題に
吉展ちゃん誘拐殺人事件は、1965年にドキュメンタリー映画「噫(ああ)!吉展ちゃん」も製作されています。これは東映・朝日テレビニュース社が製作されたものであり、事件発生から結末までを描いたものです。吉展ちゃん誘拐殺人事件を取り上げたものとしては、一番はやいものでした。
映画「一万三千人の容疑者」では登場人物の名を変えて公開
1966年に事件を担当した刑事の堀隆次の手記を原作にした映画「一万三千人の容疑者」が公開されました。この映画は吉展ちゃん誘拐殺人事件が発生してから1年ほどしか経っていなかったこともあり、登場人物の名前は変えて公開されています。
関川秀雄『一万三千人の容疑者』('66東映)吉展ちゃん誘拐殺人事件の映画化。主演の芦田伸介は、原作者でもある実在の主任刑事役。『戦後最大の誘拐 吉展ちゃん事件』('79テレ朝)でやはり芦田が演じてる平塚八兵衛刑事とは別人なのがややこしい。さらになんでか犯人の愛人役がどちらも市原悦子。 pic.twitter.com/VTDIMF8YlF
— ochichan (@ochichan) May 4, 2018
他にもたくさんのドラマや映画、本が製作されています。それだけ国民の関心が高かったこと、その後の狭山事件や平塚八兵衛との因縁など、題材にしやすいという理由があったようです。これらのドラマや映画から事件の悲惨さが伝わってくると言えます。
返しておくれ今すぐには「吉展ちゃん誘拐殺人事件」の犯人へのメッセージソング。がんばれ元気はコロムビアでシリーズ販売されたカラーポートレコードでカネボウの応募で当選したレコードのようでチラシが一緒に入っていました。 https://t.co/wH1UkQt09U
— キネコ (@kinekoV) November 5, 2017
また、吉展ちゃんの遺体が発見されたときにNHKが放送した「ついに帰らなかった吉展ちゃん」という特集は、関東で59.0%の視聴率だったそうです。この視聴率は現在まで、ワイドニュースにおける最高視聴率となっています。
吉展ちゃん誘拐殺人事件の因縁とは
この事件がまるでドラマのようだったと言われるのは、いくつかの因縁も関係しているようです。しかも、その因縁というのは吉展ちゃん誘拐殺人事件の犯人と被害者本人だけのものではなかったことが噂されています。吉展ちゃん誘拐殺人事件にまつわる因縁について紹介します。
吉展ちゃん誘拐殺人事件の裏には因縁も?
まずは、先程紹介したようにこの事件は誘拐事件という問題において、その後の狭山事件に大きな影響を与えています。ドラマのように立て続けに大きな事件が起こったこと、そして警察が同様のミスを犯したことは因縁を感じさせるものです。
本田靖春の吉展ちゃん誘拐殺人事件のルポを読んで恐ろしかったのは犯人よりも被害者家に襲いかかった膨大な数の嫌がらせだ。中でも吉展ちゃんが誘拐直前に公園の水道を使って水鉄砲で遊んでたことから「公共のものを無断で使うからそんな目に遭うのだ」と書かれてたという匿名手紙には吐き気がする。
— SIVA (@sivaprod) October 25, 2011
狭山事件の失敗もあり、警察は誘拐事件に対する法律を厳しくするなど、大きく捜査の仕方を変えることにもつながっています。また、担当した平塚八兵衛は吉展ちゃん誘拐殺人事件における捜査方法に問題があると指摘されており、その後の事件でも冤罪を引き起こしてしまったのではと思われるものが多いです。
殺害現場が円通寺なのは犯人の因縁が関係か
吉展ちゃんの遺体が見つかったのは坂上田村麻呂が建立した円通寺ですが、これが意外な因縁を感じさせるものとなっています。実は吉展ちゃんの家と犯人の小原保の家は、先祖を辿っていくと同じ村出身だったという話があります。
そして、その村では小原保の先祖が吉展ちゃんの先祖に殺されたという噂があるのです。つまり、その先祖の因縁が子孫である吉展ちゃんと小原保にも降り掛かってきたという見方になっています。
殺された側の子孫が、殺した側の子孫を殺害したというのは少なからず因縁を感じさせる話というわけなのでしょう。もちろん、これが本当なのかは不明な部分も多いですが、ドラマのような出来事といえます。
上野にあった黒門が今は南千住の円通寺にあるというのでぐぐってたらびっくり。1963年の「吉展ちゃん誘拐殺人事件」、被害者の遺体発見現場はこの寺。当時、同い年のアタシは親に何度も気を付けるように言われたことを思いだした。慰霊地蔵があるようだ。お参りしてこよう。
— caorinegi (@caorinegi) October 18, 2010
また、とある宗教団体が吉展ちゃん誘拐殺人事件を利用した商売を行ったという話もあります。犯人の小原保や母親がその宗教団体に所属していたことも利用された理由だと言われています。それぞれの先祖の因縁を利用して、霊界因縁の話をして信者を洗脳していたそうです。
犯人の母親と刑事の因縁の可能性は低い?
吉展ちゃん誘拐殺人事件の母親と刑事にも因縁があるという噂もあるようですが、その噂の出処は不明です。平塚八兵衛が母親の話を伝えたことで小原保は自供したわけですが、ある意味で母親を使って自白を強要したという意見もあるようです。
吉展ちゃん誘拐殺人事件はドラマ化もされた身代金目的の事件
昭和に起きた戦後最大の誘拐殺人事件と言われる吉展ちゃん誘拐殺人事件について紹介しました。この事件はドラマ化や映画化もされており、大きな事件として記憶されているものです。結果的に犯人は死刑、被害者は死亡という結末となっています。
また、吉展ちゃん誘拐殺人事件が発生して2ヶ月後に狭山事件も起きており、連続して誘拐殺人事件が起きてしまったわけです。吉展ちゃん誘拐殺人事件も狭山事件も結末は悲しいものになっており、冤罪の疑いがあるなど、どこかスッキリしない事件だったといえるのではないでしょうか?
現在は、吉展ちゃん誘拐殺人事件や狭山事件のような身代金目的の誘拐事件というのはなかなか起きにくくなっています。知らない人にはついていかないように教えたり、世間の目が不審者に対して敏感になっているという背景があるといえるでしょう。
小原保「私は今度生まれるときは真人間になって生まれてきます。ナスの漬物おいしゅうございました」(吉展〈よしのぶ〉ちゃん誘拐殺人事件)
— 津山 (@TYM30) December 19, 2010
吉展ちゃん誘拐殺人事件によって法律が変更されたこと、また警察が犯罪捜査において電話の逆探知が認められるようになりました。事件を風化させないとともに、二度と吉展ちゃん誘拐殺人事件のようなものが起こらないように願いましょう。